現代の小説は

 映像文化の隆盛が活字文化を衰退させる。そんな見方に対して、ある評論家の時評が言っていた、「私は映画やテレビにくらべて、小説の運命を云々する外在的な議論を好まぬのである。映画やテレビが発達すればするほど、そういうものでは代置しがたい小説独特の性格もはっきりしてくる道理である」。そうかな。とにかく、現代小説のゆきづまりを文学それ自体の問題として指摘していた。そっちは、ちょうど私が前に「逆説の消滅」「社会学の優位」で言ったのと関連する内容だった。

 問題は現代小説そのものに内在しているようだ。一口にいえば、現代人の輪郭がぼやけてきて、だんだん描きにくくなっている、ということだ。(略)人間そのものを描くのではなくて、人間と人間との相対的な関係を描くという方向に、そこから状況や事件の重視という方向に、現代小説が変わってきたのも、そのせいである。

 この時評家は別のところで、現代小説は素材や筋書きを重視するようになり、作家は個性的な文体を失っていった、という指摘もしていた。文体と物語性についても私は前にふれたことがある。さて、種明かしをすると、上記の引用は「小説新潮」の「文壇クローズアップ」で、書いたのは平野謙、書かれたのは一九六〇年十二月号である。私の関心事はとっくに五〇年前に言われてたわけだ。ほか、平野は、石原慎太郎の登場によって文壇が大きく変質していったことを何度も指摘している。でも、現在の芥川賞審査委員としての石原慎太郎は文壇の破壊者どころか固陋な保守派だ。昔と今で状況は変わってるとか、変わってないとか、どう考えればいいのだろう。
 この一年、こつこつと平野謙『文壇時評』上巻を読んでいて思ったことである。ついでに言うと、私の学生時代、平野謙はしばしば「作家の実生活と作品を結びつけて読む人」の代表に挙げられたものだ。でもこれは誤解ではないか。彼が私小説を純文学の本道と考えた人であるのは確かだろうけど。