岸田将幸『』(その1)

 これまで岸田将幸の居る座談会についてふたつ書いた。そのどっちでも彼が苛立ってトゲトゲしいのが印象に残った。認める詩のストライクゾーンが狭いのかな、なんて思った。いや、狭い、より、無い、に近いのかもしれない。「現代詩手帖」での佐々木敦の連載対談で、こんな話をしている(二〇〇九年十一月号)。

 私のそれまで書いたものは、同人誌も詩集もビリビリに破って水につけて捨ててやりました。現代詩文庫もマジックで黒く名前を塗り消して、ほとんど捨ててやりました。まず詩を殺すところからはじめるということを同時にやっていました。テクニックとしての詩、美学的な詩、そういったものをぜんぶ殺すところからはじめる。

 『臨済録』の「仏に逢ったら仏を殺し」の気分であろう。ただ、「いかにも詩らしい」部分が無いと、出来上がった言葉が詩に見えない。「いかにも詩らしい」詩を書くことはそんなに難しくはないはずである。季語と五七五をそろえるだけで「いかにも俳句らしい」ものが出来上がるし、詩を破壊する身振りでさえたいていは「いかにも詩らしい」ものだから。困難なのは「いかにも詩らしい」部分を排除する岸田の方法だ。
  誰にも欲望されぬのは怖ろしいことだ。
  すずやかな茶色い、自殺の想念が来ていることを解っていた
  内海のにぶい風土と山上向こうの死火山の風下が
  弁証法的な会話を弱らせ、怯え
  怒りとなり実存感知計を震わせる
 『丘の陰に取り残された馬の群れ』(二〇〇七)の「神馬、土地を鎮めよ」から適当に引いた。いつだったか、書店で立ち読みしたのがこの詩集だったと思う。その時は、こりゃ詩じゃないよ、観念語を無意味に連ねた不可解な随筆みたいなもんだ、と判定して書棚に戻した。あながち間違った読み方でもないだろうけど、「いかにも詩らしい」詩の枠を守ってる読み方であるのも確かだ。それでは岸田の苦行は通じない。
 『<孤絶−角>』は買った。とはいえ、ぢゃあどう読むの、となるとわからない。へたにわかっても仕方ない。たぶん、私のような読者は、当分この詩集から拒絶されてるような気分と向き合うしか無いのだろう。さて、「現代詩手帖」の四月号で添田馨が、五月号で阿部嘉昭が、それぞれ、『<孤絶−角>』の同じ部分にコメントしている。あんまり納得はできなかったのだけど、途方に暮れてるだけの私より頑張ってくれてるのは確かである。