投壜通信まだまだまだ

 この話題を終えるのは結構大変なのかもしれない。また無視できない説が見つかった。「ユリイカ」五月号が『クォンタム・ファミリーズ』の小特集を組んでおり、その中の佐藤雄一「QF小論」によると、投瓶通信はマンデリシュタームの評論「対話者について」の言葉らしい。佐藤が参照している中平耀『マンデリシュターム読本』を読むと、懐かしいな、アクメイズムなんて言葉が出てきた。スターリンの迫害を受けて流刑地で没した詩人とのこと。さらにツェランとのつながりまで見えてきた。やれやれ。「対話者について」は『石』に収録されているようだ。デリダ『シボレート−パウル・ツェランのために』とあわせて図書館に貸し出しの予約をしたさ。
 もっとも、佐藤の投瓶通信の解釈は忘れてもいいと思う。投瓶を受け取ってもらえるためには、漂流に耐えられるほど瓶が丈夫でなければならない、と彼は言う。この観点からすると、『クォンタム・ファミリーズ』においては友梨花が瓶の重要な送り手ということになる。メッセージよりも瓶を重視するのがいまどきか。そんなことなら私は投瓶通信に何の興味も持てない。極端なことをいえば、瓶どころかトイレットペーパーに詩を書いてそのまま海に流すだけでもいい、とさえ私は思うのである。対して、ちゃんと届かせるために瓶を強化しようという佐藤の発想は、「届かないかもしれないけど、それは仕方ない」という『存在論的、郵便的』の本来の投瓶通信とはそぐわない。届かせる保証の確保はまた別の話である。
 デリダツェランについては、福田和也が意外なことを話してる。十年前の「新潮」六月号の木田元との対談「哲学の根源的経験」だ。

 ツェランが高名になったのはわりと最近でしょう。学生の頃に驚いたのは、高橋允昭さんがデリダをインタビューした記録を読んだ時、デリダツェランを知らなかったんですよ。奥さんのジゼル・ツェランのことしか知らなくて、七〇年代後半だと、そう言えば、ノルマルの教師で身投げして死んだ人がいたな、というぐらいの認識しかないんです。

 投瓶通信をめぐる議論に関しては、「〔練習場〕」の10/04/23 にいろんな意見がまとまっている。