古井由吉『やすらい花』

 『やすらい花』は初出の段階でずいぶん読んだ。三十年ほど古井由吉を読み続けて思うに、だいたいどれも同じで、今回もそう思った。ほかのベテラン作家も似たようなものかもしれない。それは考えずにおこう。一冊にまとまって改めて読み直した。やはり最高である。特に「生垣の女たち」なんて、古井由吉らしいという意味では、この人の決定版と言いたい傑作である。老人の家に間借りして、二十五歳の男が、年上の女と暮らす。五十年ほども昔のことだ。他人の家に棲みつく、ということが女を軽く敏感にさせている。しかし、だんだん馴れてゆく。最初は風呂の共用にも「眉をひそめ」ていたりするのだけど、「いつのまにか男の後から水をつかわせてもらうようになった」。で、ある夜、こんなことを言う。

 大家さんは、とある夜、湯あがりの手足を寝床の中で伸ばして女は言った。大家さんと二人の間では呼んでいた。
 大家さんは、お風呂場のことでは、潔癖な人のようだわ、男の神経ではあの程度の汚れ方では済まないものよ、と感心する。
 だけど不思議なの、あそこには桶にも簀の子にも誰だか、女の人の匂いが染みついていて、流せば流すほどはっきりと立ってくるの、まるで人の姿が見えるようで、と言う。自分のではないか、と男はからかった。いやよ、わたしの見も知らない人よ、女は肌を寄せてきた。

 この敏感さが古井らしさだ。馴れがさらに女を敏感にさせ、それがまた馴染みを深めてゆく。濃密な感覚だが、この小説は基本的にこの男が七十歳になった頃の思い出話だ。老人はもちろん、女もすでに亡くなっている。遠い話なのだ。それがまた濃さ、密やかさを増す。エロティシズムの真髄である。それがファンにはたまらない。
 文章も一筋縄ではいかぬ。現在と回想の境をあいまいにする筆の運びが絶妙だ。「新潮」六月号に諏訪哲史が書評を書いていて、その冒頭で古井由吉を「現代日本文学において、本来の意味で最も過激な、過酷なそして実験的な日本語の使い手」と呼んでいるのはまったく正当である。「やすらい花」の語りが不思議だ。「昔の自分の脚ならば」と始まって、以下しばらく随筆のように「やすらい花」について七頁も書きつづる。そして、八頁でいきなり始まるのだ。

 ある男、十七の歳に、親が土地から立ち退くことになり、引っ越しも近づいた頃、ここ何年かはめっきり疎くしているが自分には故郷に違いない土地を、さすがに名残り惜しくもあり、あちらこちら歩きまわるうちに、これまでついぞ見かけられなかったように思われる、人の庭に目を惹かれた。

 この転換は覚えがある。落語家が羽織を脱いでいきなり本題に入る呼吸である。随筆部分は枕だったわけだ。引用個所のだらだらした趣にも覚えがある。中世説話を現代語訳したような文体である。そして、この「ある男」が、やっと現れた主人公なのかどうか、それがまたすぐにはわからない。「実験的な日本語」とは、私が例を挙げればたとえばこんなことだ。実験と言うより、芸として完成されている。