十年前の「文学界」を読んだ

 ウェーベルンは最も好きな作曲家のひとりである。むかしは良い演奏のCDが少なかった。悪い演奏さえ少なかった。ブーレーズが監修して一九六七年から七一年にかけて録音された全集がやっとCD化されたのは一九八七年である。それもあまり満足できるものではなく、特に歌曲の評判が悪かった。歌手が音符に追いつけないのか、大急ぎで叫んでいるだけのように聞こえる。だから私は別のCDのドロシー・ドロウやエリカ・シクライの声で作品3や作品16をよく聴いていた。
 九〇年代になってブーレーズウェーベルンを録音し直して新全集を編んだ。その評を浅田彰が「文学界」六月号に書いている。連載「音楽の手帖」第二回「二〇世紀音楽史のモニュメント−ブーレーズヴェーベルン全集を聴く」である。題名からわかるように絶賛だ。「半世紀をかけてやっと演奏技術が彼の理想にまで近づいたのだ」。
 前年のシノーポリによる録音の「驚嘆すべき演奏」と比較して、ブーレーズのは「冷静」「淡々とした演奏」だと言う。いま「パッサカリア」作品1を両者で聴き直してみた。シノーポリが「驚嘆すべき」かなあ。ただ、たしかにブーレーズの「淡々」は同感である。ちなみに、私の好きな「パッサカリア」はケーゲルのだ。また、浅田が特にほめちぎっているのが声楽曲だ。「ソプラノのクリスティーネ・エルツェは透明な声といい清潔な歌い口といいヴェーベルンを歌うのに理想的であり(略)それはまさにブーレーズによるヴェーベルンの頂点と言うべきだろう」。これもわかる。もちろん好みとしては、私なんかは、もっと音の飛躍の緊張感を出してもいい場面があるような気がするけど。そして、他の演奏家にもいろいろ正確な評言を連ね、次のように見事にまとめる。

 こうして初期の習作から最後の作品まで通して聴いてみると、後期ロマン派の色彩豊かな叙情から出発して一切の無駄を排した抽象に到達したヴェーベルンの音楽は、西洋音楽のひとつの終点として立ち現れてくる。若き日のブーレーズはその終点に新たな展開のための出発点を見た。だが、それからさらに半世紀を経て、ヴェーベルン的原理を一般化したブーレーズらによる音列(セリー)主義の実験もほぼ可能性を汲み尽したいま、われわれは、それはやはり終りだった−始まりであるとしても「終わりの始まり」だった、と言わなければならないだろう。もとより、それによってヴェーベルンの音楽の価値が否定されるわけではない。むしろそれは西洋音楽史のひとつの頂点=終点として、偉大な孤独のうちに屹立し続けていると言うべきなのだ。

 いまの文芸誌からは芸術音楽の話題は消えている。「終わりの終わり」が来てしまったんだろうか。ぜんぜん関係無いことを付け加えると、私は一九九五年のブーレーズ・フェスティバルでベリオ「シンフォニア」を聴いた。あれはすごかった。聴いたというより、大事件に立ち会った気分だった。その日の一曲目は「パッサカリア」だった。最初のピチカートのところで、客の携帯電話が鳴った。サントリーホールに一分以上も鳴り渡った。