新潮昨年5月号、東浩紀「ファントム、クォンタム」、連載第一回

 昨年の「新潮」五月号から東浩紀は小説「ファントム、クォンタム」の連載をほぼ隔月で続けて、いま六回まで発表している。題名を訳せば、「亡霊、量子」か。作者のブログでは「あと連載2回で終わり」(09/02/27)とのこと。いまから読み始めて最終回までに追いつきたい。
 二人の主人公の語りから成る。一人は葦船往人、もう一人は娘の風子だ。ただし、成立が複雑な親子関係である。実は、往人の世界において、彼は子を成してない。この世界を「A」と呼んでおこう。我々の経験している世界と同じ内容を有してると考えて良さそうだ。風子はAとは異なる世界の存在である。風子の世界を「B」と呼ぼう。2000年のアメリカ大統領選挙でゴアが当選しているような世界である。AとBは互いの並行世界なのだ。Bにおける往人には娘がいて、それが風子である。
 風子は往人Aを往人Bの「分身」と呼んでいる。そうだろうか。たとえば、往人Aはアメリカ人で、大統領で、名はブッシュだ、とも考えられる。その場合は、風子は往人Aを往人Bの分身と呼ばない気がする。つまり、AとBの対応は、対応をどう考えるかによって決まってくるのではないか。私はそれが気になるが、作者の関心は他にありそうだ。
 べつの世界にまつわるいろいろな問題はすでに三浦俊彦が文学理論として論じている。『虚構世界の存在論』(1995年)や『可能世界の哲学』(1997年)がそれで、「エクリチュール元年」という小説もある(1995年初出、2007年加筆刊行)。「ファントム、クォンタム」を読み始めて最初に思い出したのはこれだった。すっきりした様相論理を軸に考える三浦の陽気で騒々しい「エクリチュール元年」に対し、「ファントム、クォンタム」の世界観は、量子力学の混沌とした多世界解釈に裏付けを得た重苦しさを抱えている。
 「ファントム、クォンタム」の並行世界は、まづコンピュータからの情報として現れる。この点は鈴木光司『ループ』(1998年)を思わせる。大きな違いは、コンピュータ無しでは『ループ』の主舞台は成立しないが、「ファントム、クォンタム」の並行世界は、コンピュータ無しでも存在していそうな点である。コンピュータの情報でしかない世界に実在感を与えられるだろうか。こう考えると、『ループ』よりも問題意識が近いのは、埴谷雄高が『死霊』で成し遂げようとしたことだ。
 「ファントム、クォンタム」自体の中で言及される作品もある。村上春樹の短編で、題名は伏されているが明らかに「プールサイド」である。つかみどころの無い作品である。しかし、往人の解釈を読んで、初めて私は理解できた、と思えた。

 ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられることだけではなく、なしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。(略)ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。(略)ひとは、過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界に存在しない、夢のようなものだから、いくら現実に成功を収め、安定した未来を手にしていたとしても、決してその憂鬱からは解放されない。

 「仮定法」は「仮定法過去」の意味である。往人のような人生観から「プールサイド」を考える。成功した人生を送る主人公を不意に襲う悲しみは、なしとげたかもしれないのに実現されなかった過去が呼び起こすものなのだ。それに気づかされた。往人の人生観は東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年)のこんな一節を想起させた。

 私たちは、一回かぎりの生を、それが一回かぎりではなかったかもしれない、という反実仮想を挟みこむことで、はじめて一回かぎりだと認識することができる。この条件は、人間の生の根底に関わるものであり、(略)この点に関心のある読者は、筆者の『存在論的、郵便的』第一章を読まれたい

 『存在論的、郵便的』(1998年)に触れることはいつかあるだろう。葦船往人がAとBに分かれる設定は、主人公がSとRとIに分かれた東浩紀桜坂洋『キャラクターズ』(2008年)と似ているが、ラカンの理論を下敷きにしたこれよりも「ファントム、クォンタム」の方が東浩紀にとって切実なものに違いない。
 追記。この更新を終えた八十分後に東浩紀のブログも更新された。韓国からのメールインタビューへの回答である。最初の質問は「持続的に堅持している問題意識があるならそれはどういうものなのか」で、浩紀の回答は、「人間は一回の人生しか生きられないけれど、他の人生も想像することができる。そのことにはどんな意味があるか」だった。