塚本邦雄(その2)、短歌の終り

 楠見の本のまえがきによると、「歌は滅びた、というのが、中年以降の塚本邦雄の考えであった」。調べると、『詩歌宇宙論』(一九八〇)所収の「明日を語らば」に当たった。「一九六〇年にその後二十年を占つた人人の中には(略)画期的な俊才、若い桂冠詩人の誕生を夢みた者はなかつたか」と塚本は問う。ほかならぬ、彼自身がその一人だった。天才の登場を「ほとんど確信を以て期待した」とある。ところが、

 一九七〇年、そのやうな翹望も亦、全くの見当違ひであることを覚つた。一九八〇年間際になつて、英雄待望論が虚妄であり感傷に過ぎぬこと、そのやうな時代は決して周つて来ぬことを、半ば確信してゐる。
 最近の諸家の達意の文章を通読し、未来記に触れ、あるいは立ち入つたものを物色したが、当然のことに徒労に類した。

 それでも歌人は残る、と。以前の更新で書いた、私が一九九〇年以降の詩人に感じていたのと同じことを、彼は短歌に関してもっと早い時期に述べていたわけだ。ただし、塚本の終末的預言は短歌史の観点から、はずれたと言うべきだろう。一九八七年には俵万智『サラダ記念日』が現れて、明治からずっと主張されたり試みられたりしていた口語短歌が、やっと誰でも詠める様式として確立したからである。もっとも、そうした時代の到来を、塚本個人はむしろ、自説の正しさが証明された、と感じただろうが。
  たくさんのおんなのひとがいるなかで
  わたしをみつけてくれてありがとう
 この二〇〇三年の今橋愛のような歌を穂村弘は「棒立ちの歌」と呼んでいる(『短歌の友人』二〇〇七年)。短歌としての構成意識が感じられない、日常語そのままの表出である。塚本邦雄の晩年の発言を私は何も知らない。たぶん、「これは短歌ではない」「短歌は終わった」と感じたのではないか。対して、穂村は、「この歌を初めてみたとき、ショックを感じた」とも、「不思議な感動を覚えてしまう」とも書き、とにかく新しい短歌として受け入れる論理を模索している。それが思考する者のあるべき姿なのか、歌の終りの悪あがきにすぎないのか、にわかにはわからない。

 九〇年代の後半から時代や社会状況の変化に合わせるように世界観の素朴化や自己意識のフラット化が起こり、それに基づく修辞レベルでの武装解除、すなわち「うた」の棒立ち化が顕著になったのではないか。

 件の今橋の歌を私はくだらないと思う。しかし、今を生き延びる戦いには武装解除が必然とされる、という穂村の逆説は魅力的だ。彼の短歌史観をここで詳しく紹介できないが、現代歌人の現実感覚の表現は、もともと塚本邦雄が準備したものだ、という見方も面白い。私も、悪あがきだろうが何だろうが、書棚の奥から藤原安紀子中尾太一をもう一回引き出して、詩について考え直そうか、とさえ思いかかる。