塚本邦雄(その1)、楠見朋彦『塚本邦雄の青春』

 あとがきに「本書はいわゆる評伝ではない」と書いてある。そこにもちょっとひかれて楠見朋彦『塚本邦雄の青春』(2月)を読んだ。ところが、標準的な評伝であった。太平洋戦争中の昭和十八年あたりから、『水葬物語』が三十一歳の昭和二十六年に刊行され、多くの無理解に埋もれかかりながらも中井英夫三島由紀夫に見出されてゆくまでを描いている。取り上げられた多くが、絢爛たる作風の確立する前の歌である。それらを当時の世情や塚本の生活に照らし合わせながら読み解いてゆく。母への思いや戦争嫌悪に焦点が当てられている。
  人参噛みて子にふくまするうら若き母よそのわざわひ充つる口 (『水銀伝説』昭和三十六年)
 かつて菱川善夫はこうした歌を引き、塚本の「執拗な魂のネガ」として「母への侮蔑、なかんずく男が女から生まれたことへの恕しがたい悔しさ」が焼きついてゆく、と述べた(「塚本邦雄論」)。そう、塚本邦雄はこんなふうに論じられる歌人だった。楠見との対比は明白だろう。伝記的事実と照らし合わせた楠見の方がすんなりと読者を納得させる。実際に後年になっても次のような歌が詠まれており、塚本が、戦時中に亡くした母を深く追慕したことは、ますます疑いようが無い。
  母に逅はむ死後一萬の日を閲し透きとほる夏の母にあはむ (『不変律』昭和五十三年)
 「人参」の「母」は母一般であり、「死後一萬」の「母」は塚本個人の母であろうが、歌材としてはひとつの「母」のふたつの取り扱いだ。そのどちらに塚本らしさ、短歌史の革命があるかと言えば、菱川の見た方である。この意味で、楠見のわかりやすい著述は塚本美学の凡庸化を果たした。好意的に言えば、塚本美学の脱神話化である。塚本邦雄も母を恋しがる通俗的日本男児の歌詠みの一人になってしまう。
 しかし、その上で楠見の意図を酌まねばならない。仮に、菱川の描く塚本を虚像、楠見のを実像と呼ぼう。あとがきに再び戻れば、虚と実の「お互いに向こうを透かし見る、その往復運動においてこそ、塚本邦雄が一生を賭した文芸が呼吸できるのではないだろうか」とある。実証の結果だけ読み取ろうというわけではない。「本書はいわゆる評伝ではない」という、本書でいちばんわかりにくい一文の真意がやっと見えてきた。