六月一七日「週刊読書人」、柄谷行人「反原発デモが日本を変える」

 六月一七日の「週刊読書人」で柄谷行人のインタヴュー「反原発デモが日本を変える」が載ったのを知らずにいた。ネット上でも複数のページで見られるようである。私は柄谷行人公式ウェブサイトで読んだ。福島第一原子力発電所の事故があってから、若い人の参加する反原発のデモが増えてきた。それを支持し、自分も行動を共にしたい、という内容である。最後に「デモをすることが当たり前だというふうになればいい」と述べ、それが資本主義への有効な異議申し立てになることに期待している。
 ここしばらく、デモをしにくいという状況が日本にはあった、と柄谷は述べている。それは『柄谷行人政治を語る』(〇九)で話したという。この本が退屈だった私は内容を覚えていない。段ボールの底から探しだして、デモのしにくさについて読み直した。下記はその引用メモである。

 僕は八〇年代に、「単独者」というようなことをいっていました。それは、共同体に対して対抗できるような個人というイメージでした。単独者とは、一人でいる私人ではなく、原子的な状態の個人でもなくて、他人と連帯できる個人をさすのです。シュティルナーが「単独者」といったときも同じ意味です。単独者が創る共同体が、アソシエーションなのです。
 ただ、そういう考え方がだんだん通用しなくなった。それに気づいたのは、一九九〇年代ですね。というのは、この時期に、それまであったさまざまな共同体、中間団体のようなものが一斉に解体されるか、牙を抜かれてしまったからです。総評から、創価学会部落解放同盟にいたるまで、企業ももはや終身雇用の共同体ではなくなった。共同体は、各所で消滅していた。
 では、個人はどうなったのか。共同体の消滅とともに、共同体に対して自立するような個人もいなくなる。まったく私的であるか、アトム(原子)化した個人だけが残った。こういう個人は、公共的な場には出てこない。もちろん、彼らは選挙に投票するでしょうし、2チャンネルに意見を書き込むでしょう。しかし、たとえば、街頭のデモで表明するようなことはしない。
 中間勢力はどのようにしてつぶされたか。メディアのキャンペーンで一斉に非難されたのです。封建的で、不合理、非効率的だ、これでは海外との競争に勝てない、と。小泉の言葉でいえば、「守旧勢力」です。(略)こうした中間勢力を擁護するのは難しい。だから、一斉に非難されると、つぶされてしまう。その結果、専制に抵抗する集団がなくなってしまう。