「新潮」10月号、丸谷才一「持ち重りする薔薇の花」、他、小池昌代『弦と響』

 丸谷才一って文学史でどんな扱いになるんだろう。ほとんど読んだことが無い。ただ私は弦楽四重奏曲が大好きだ。彼の新作「持ち重りする薔薇の花」が弦楽四重奏団を扱っている。今年は同様の小説、小池昌代『弦と響』が出たこともあり、比べながら読んだ。ただ、『弦と響』が家の中に見当たらない。記憶で書く。
 「弦と響」という題名は、「弦」が個人を意味し、「響」がその総合を意味しているのだろう。弦楽四重奏団の団員それぞれの独白、関係者それぞれの独白を、たくさん集めた一冊の本によって、独白たちの総合された声を響かせようという小説である。『転生回遊女』と同様、長編というよりは短編を連ねた感じだ。
 「持ち重りする薔薇の花」を読めば、誰もが『弦と響』を思うのではないか。ちょっと似ている。弦楽四重奏団の音楽性ではなく人間関係を、特に男女の肉体関係を軸の一つとして描いているからだ。『弦と響』は音楽を尊いものとして中心に据えることによって、それをめぐる人間関係のしがらみ全体を「響」として浄化しようとしている。対して、「持ち重りする薔薇の花」は、本来は中心にあるべき音楽をわきにのけて、楽団員たちが嫉妬や不倫のどたばたにのめり込む。つまり、これはコメディなのである。悪く言うと、気楽に読み捨てていいんぢゃなかろうか。小池のはそう読んではいけなさそうだ。
 人間関係それ自体の描き方については、丸谷の方が上だった。小池の描いたのは、まあありそうな感じで、類型的なのである。丸谷のは、「ああ、そんなことがあるのか」という驚きと、「たしかにあるだろうなあ」という説得力が、ともに備わっているケースがいくつかあった。ながいこと人事に深く関わってきたであろう偉い立場の老人を語り部に選んだことが成功している。人生の機微に通じてる雰囲気がある。
 不満を覚えたのは、丸谷の音楽の描き方である。たとえば、第二楽章でもっているような弦楽四重奏曲として、語り部の素人がハイドン偽作の「セレナード」を挙げるのは許すとして、プロの四重奏団員がハイドンの「皇帝」を挙げるのはどうなんだろう。何かのジョークなのかな、というよりは、丸谷が本気で「皇帝讃歌」を高く評価して書いてる、としか思えない。こういう品の無さは、弦楽四重奏団が「ブルー・フジ・カルテット」で、それが素晴らしい名前として命名されたエピソードにも明白だ。読み捨てでいい、と思わせた一番の理由である。