「群像」六月号、川上弘美「神様2011」
川上弘美のデビュー作は、「くまにさそわれて散歩に出る」という彼女らしい奇妙な書き出しの「神様」で一九九三年の発表である。人語をあやつる熊で、しかもジェントルだ。のんびりと散歩がこなされ、目的地の川原に到着する。そのとたん、熊に野性がよみがえる。でも、こんな具合で、平和なもんだ。
突然水しぶきがあがり、くまが水の中にざぶざぶ入っていった。川の中ほどで立ち止まると右掌をさっと水にくぐらせ、魚を掴み上げた。岸辺を泳ぐ細長い魚の三倍はありそうなものだ。
「驚いたでしょう」
戻ってきたくまが言った。
「おことわりしてから行けばよかったのですが、つい足が先に出てしまいまして。大きいでしょう」
くまは、魚をわたしの目の前にかざした。魚のひれが陽を受けてきらきら光る。釣りをしている人たちがこちらを指して何か話している。くまはかなり得意そうだ。
「さしあげましょう。今日の記念に」
そう言うと、くまは担いできた袋の口を開けた。取り出した布の包の中からは、小さなナイフとまな板が出てきた。くまは器用にナイフを使って魚を開くと、これもかねて用意してあったらしい粗塩をぱっぱと振りかけ、広げた葉の上に魚を置いた。
「何回か引っくり返せば、帰る頃にはちょうどいい干物になっています」
何から何まで行き届いたくまである。
「今日はほんとうに楽しかったです。遠くへ旅行して帰ってきたような気持ちです。熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように。それから干し魚はあまりもちませんから、今夜のうちに召し上がるほうがいいと思います」
部屋に戻って魚を焼き、風呂に入り、眠る前に少し日記を書いた。熊の神とはどのようなものか、想像してみたが、見当がつかなかった。悪くない一日だった。
突然水しぶきがあがり、くまが水の中にざぶざぶ入っていった。川の中ほどで立ち止まると右掌をさっと水にくぐらせ、魚を掴み上げた。岸辺を泳ぐ細長い魚の三倍はありそうなものだ。
「驚いたでしょう」
戻ってきたくまが言った。
「つい足が先に出てしまいまして。大きいでしょう」
くまは、魚をわたしの目の前にかざした。魚のひれが陽を受けてきらきら光る。さきほどの男二人がこちらを指して何か話している。くまはかなり得意そうだ。
「いや、魚の餌になる川底の苔には、ことにセシウムがたまりやすいのですけれど」
そう言いながらも、くまは担いできた袋の口を開けた。取り出した布の包の中からは、小さなナイフとまな板が出てきた。くまは器用にナイフを使って魚を開くと、これもかねて用意してあったらしいペットボトルから水を注ぎ、魚の体表を清めた。それから粗塩をぱっぱと振りかけ、広げた葉の上に魚を置いた。
「何回か引っくり返せば、帰る頃にはちょうどいい干物になっています。その、食べないにしても、記念に形だけでもと思って」
何から何まで行き届いたくまである。
「今日はほんとうに楽しかったです。遠くへ旅行して帰ってきたような気持ちです。熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように。それから干し魚はあまりもちませんから、めしあがらないなら明日じゅうに捨てるほうがいいと思います」
部屋に戻って干し魚をくつ入れの上に飾り、シャワーを浴びて丁寧に体と髪をすすぎ、眠る前に少し日記を書き、最後に、いつものように総被曝量を計算した。今日の推定外部被曝線量・30μSv、内部被曝線量・19μSv。年頭から今日までの推定累積外部被曝線量・2900μSv、推定累積内部被曝線量1780μSv。熊の神とはどのようなものか、想像してみたが、見当がつかなかった。悪くない一日だった。
デビュー作の「奇妙な読後感」が解消された。作者の書きたかったことは、「悪くない一日だった」に託されていたわけである。改作されねばわからず仕舞いだった。「生きることは、どんな時でも、大いなるよろこびなのです」というメッセージがあったわけだ。そして、このメッセージは福島の事故があっても変わらない、と改作で訴えているのである。
ここで確認しておきたいのは、11/07/27に述べたことである。田中和生は、福島の事故があった後は、ファンタジーの文学はますます力を失い、リアリズムが文学には必要とされている、と主張していた。そうだろうか。「神様2011」はファンタジーであろう。川上のメッセージが正しいかどうかは問わない。ただ、メッセージを伝える方法としてファンタジーが有効であることを「神様2011」は証明している。