ETV特集、2009年1月4日、吉本隆明 語る 〜沈黙から芸術まで〜

 吉本隆明『言語にとって美とは何か』(1965)は最初の三章がとても面白く、たいへんよく読んだ。論理的に大きな欠陥を持つ本ではある。無関係な二つの言語観が混在しており、それを作者が自覚せずに一つの言語理論として語るものだから、読者は混乱してしまうのだ。それに気づきさえすれば、著者が単純な発想をもとにして、像や韻律そして比喩までを、言語が本質的にもつ芸術性として説明しきる行程を、楽しめるはずだ。
 この本で最も重要な概念の「自己表出」と「指示表出」のそれぞれに、二つの言語観が込められている。吉本自身にはそのうちの一つだけが見えており、それだけが彼には重要だった。つまり、自己表出は言語の主観的な面を担い、指示表出は客観的な面を担う。ただし、主観を吉本は独特に捉えて考えており、そこはよく読まねばならない。
 写真でしか知らない吉本隆明である。八十三歳の昨年にした講演がテレビで放送される、と番組表を見て興奮した。長年にわたって考えてきたことをまとめて話したい、という講演だった。たくさんの聴衆だった。吉本の影響力はとっくに衰えたが、むしろそれゆえに二千人も集まったように思う。話者もその期待に応え、言論の熱かった時代を会場に蘇らせた。九十分の予定を大幅に超えて三時間も語り続けたようである。
 話題は共同幻想でもハイイメージでもなかった。やはり自己表出である。それも、『言語にとって美とは何か』にはあまり書かれていない自己表出であった。一言でいえば、沈黙の表現性である。言語の本質に沈黙がひそむという観点に立って考えれば、たとえば、バルザックの大長編に比べても、芭蕉の俳句は決して貧弱ではない。そういう話だった。労働量という計量可能な基準によっては文学の価値を測れない所以である。
 私にはそこが新鮮だった。というか、長らく忘れていた。沈黙が吉本の言語観の核心であることを、柄谷行人が「発語と沈黙」(1971初出)でとっくに指摘していたのを思い出した。吉本自身の書いたものでは「沈黙の有意味性について」(1967)がある。柄谷に影響されて私はこれをよく読んでいた。
 言語の伝達機能を吉本は指示表出に割り振っている。伝達用の言語は「他人を指向する言語」に読み替えることができよう。柄谷行人の言う近代文学の終わりは、「グローバルな資本主義経済が、旧来の伝統指向と内部指向を一掃し、グローバルに「他人指向」をもたらしている」(『近代文学の終り』2005)ことに由来する。これをまた吉本の用語に読み戻せば、文学の終わりとは、文学から自己表出が見失われて指示表出で書かれるようになること、に違いない。
 吉本は、物語を面白おかしく組み立てるのは指示表出だ、と考えている。本来、物語批判に始まる小説というジャンルに物語性が復権しているのは、長野まゆみ小川洋子などの名を挙げるまでもない現代文学の大きな特徴である。それはしかし、文学の終わりの一現象でもある、とも考えられるわけだ。
 また、業績評価から横綱の昇進にいたるまで、何かと計量可能な客観的基準が求められる風潮もグローバル化と無縁ではない。てっとり早く海外と交渉するには数字という万国共通の基準で議論せねばならぬ。沈黙していても誰かがわかってくれる、という世間は無い。自己表出の居場所が無くなる道理である。