群像1月号、松浦寿輝「川」

 1993年の第四詩集『鳥の計画』の後書で、松浦寿輝は『吃水都市』ほかの詩集が「数年のうちに刊行されるだろう」と述べている。実際は昨年の暮にやっと『吃水都市』が出た次第である。何年も第五詩集を私は待ち、ある日、松浦が小説家に転向したのを知った。日本の近代詩における玉音放送であった。私の思いはひとこと、「などてまつうらは人となりたまひし」。
 小説家松浦寿輝を愛せなかった。わざわざ時代遅れの徳田秋声を選んで模したような文体のセンスが嫌味だった。今にして思うと、古井由吉吉田健一の混淆文と言った方が正確だったかもしれないが、とにかく、飯島耕一が『シュルレアリスムよさらば』で言った、「いつも浅薄なことしか言わない松浦寿輝」は至言だと思う。それでも『半島』は読ませた。地下道を坊主頭とトロッコで抜けるくだりは今世紀の名場面の一つに挙げたい。やっと和解が成った気分である。
 「群像」一月号の「川」の主人公は「詩を書く少年」だった老人である。名前は平岡、というところで本当はピンとこなければいけなかった。平岡は懲役二十七年の刑に服していたらしい。ああ、あの人か。彼は腹を切って死んだわけではなかったのだ。こういう遊びは悪くない。
 決起以後の三島由紀夫を登場させた小説としては、島田雅彦『僕は模造人間』が思い浮かぶ。島田に限らぬ他の多くの三島をめぐる言説に比べ、「川」が大きく異なるのは、「あの事件の動機は何か」という問題に作家がほとんど関心を持ってないことだろう。『模造人間』の三島も奇異だが、松浦の方がもっと特異である。「川」の主人公の思考は、事件以前の源流にさかのぼろうとはせず、事件だろうと何だろうとすべて終わってしまった、と思うことにつきる。主人公ほど激烈な人生を歩んだわけではないが、この点はしかし、われわれの多くも共有できる感覚だろう。
 小説は、そんな主人公が一口の洋酒で癒される場面で終わる。癒される、としか言いようの無い、俗な結末で、そこが作者の軽薄さなのだが、すべてが終わったという世界はあながち無味乾燥な繰り返ししか存在しないわけでもないのだなあ、と思わせてくれる。ちなみに、本作に使われたCragganmore(クラガンモア)を飲んでみると、たしかにうまかった。
 それにしても、これを機に久しぶりに「詩を書く少年」を読み返した。三島にとっても特別な作品で、彼はこれを私小説と呼んでいる。二十年以上も前に読んだ頃とは違って、最近のうすうすの小説に慣れてしまった私の眼には、あまりに本格的に小説的な小説であった。結末につい興奮してしまったことを告白しておく。
 最後に。三島事件の解釈についてメモを。彼は失敗も周囲の反応もすべて勘定に入れたうえで、馬鹿げた決起を「本気で本気を演じる」行動に出たのだ、と小島毅『近代日本の陽明学』は言う。「川」にはちらっと主人公が事件を回想して「ポーズ以外の何ものでもない」と述べるくだりがあるが、小島説の方が真実にやや近い気がする。あと、変わった説だと思うが、大岡昇平『萌野』の結末あたりに、「最初の計画が市街戦における斬死だった可能性は排除されていない」とある。