文学界1月号、水村美苗

 水村美苗日本語が亡びるとき』の冒頭三章が、出版に先行して昨年の「新潮」9月号に掲載されたとき、夢中で読んだ私だったが、ここまで話題になるとは思わなかった。十月に出て、こないだ書店で奥付を見たらすでに五刷であった。
 この本には、ふたつの現状から、日本語の亡ぶ危機感が論じられている。ひとつは、グローバル化による英語の世紀の到来、もうひとつは、文学の終わり、特に日本文学のレベル低下である。私は後者に以前から関心があった。特に柄谷行人近代文学の終り」を四年前のまだ本になるちょっと前に読んでからは毎日考えるようになっている。水村の本はもっと本格的に考え始めるきっかけになった。
 柄谷も文学の終わりをグローバル化から説明した。対して、水村は英語の世紀の到来と日本文学の没落について、「この二つのあいだには、因果関係はない」と言っている。現状認識は似ていても、微妙に違うわけだ。いづれにせよ、文学の終わりにはグローバル化が関わるらしい、ということには啓発された。
 私も文学は終わったという実感は抱いている。ただし、その理由がわからない。柄谷と水村の説明には実は納得していない。なんとか説明してみたい、もしかしたら、何かが新しいのかもしれない。それがこのブログを始める動機である。平知盛のように「見るべき程の事は見つ」と言ってみたい、というのが本音だとも思う。
 一月号を見ると「新潮」と「文学界」で水村が座談会やインタヴューに出ている。前者は梅田望夫との「日本語の危機とウェブ進化」、後者は鴻巣友季子が聞き手になった「日本語は滅びるのか」だ。蓮實重彦が「新潮」で始めた随想の連載でも『亡ぶとき』は言及されていた。近頃こんなに話題になった文芸評論ってあっただろうか。
 鴻巣の、「新聞紙上のインタヴューでは、翻訳出版文化を保持することが大切だとおっしゃっていましたが、日本文学が英訳されることの意義に関してはどのようにお考えでしょうか」との問いに、水村は「翻訳するに値する文学を書き続けられるかどうかが鍵となるでしょうね」と答えている。
 翻訳される日本の現代文学としては村上春樹が思い浮かぶ。ただ、それが「翻訳するに値する文学」なのかは難しい。春樹の軽い日本語はむしろ「終わりの始まり」を象徴するものにさえ思える。
 それだけではない。「文学界」のインタヴューの後には藤井省三「東アジアが読む村上春樹」が続いていており、読むと問題はさらに複雑に思えた。中国語に翻訳された春樹文学の特徴として、「異化」より「帰化」に重点が置かれている、というのである。つまり、翻訳が、中国にとって異質な文化としての日本文学との出会いではなく、中国の文脈に合うよう調整する役割を持っているのだ。それは、水村が望む日本文学の発信力を薄めるものに違いなかろう。翻訳されてればそれでいい、というわけでもなさそうだ。