新潮昨年8月号、東浩紀「ファントム、クォンタム」、連載第二回

 村上龍がホスト役を務めたテレビ番組「Ryu's Bar 気ままにいい夜」の最終回に柄谷行人が出た。1991年3月である。最後の数分の話題が「生まれ変わったら何になりたい?」だった。柄谷は、私の記憶そのままに再現すると、「何にも生まれ変わりたくない。いま生きてる一回限りでいい」とだけ答えた。もともと柄谷は転生や死後の世界について否定的ながら、しばしば言及せずにはいられないタイプである。彼の基本的な立場は次の一節でわかる。

 パスカルは「私はなぜここにいて、あそこにいないのか」と問う。この問いもまた近代的なものだ。なぜなら、こことあそこが質的に異なる空間だった中世の位階的な世界像においては、このような問いはありえないからである。そこでは、ひとびとは、ここにいてあそこにいない「理由」をもっていた。ちょうど、江戸時代の人間が、自分は百姓であって武士ではないということをすこしも不思議とは思わなかったようにである。このような問いは、均質的な空間、または市民社会においてのみ可能である。(『日本近代文学の起源』1980)

 何度か対談などで柄谷が取り上げたのが、江藤淳小林秀雄』の次のような冒頭だ、「人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するであろうか。あるいは、人はなにを代償として批評家になるのであろうか」。柄谷の立場からすれば、この冒頭は、近代という枠の中で思考していることに無自覚な例ということになる。いまここで『小林秀雄』を読み返す余裕は無い。私の記憶にあるのは、ほとんど冒頭しか問題にしてない柄谷の粗雑さである。とはいえ、切り口としては面白い。
 「ファントム、クォンタム」の連載第一回を読んで、作者と主人公の人生観が酷似していることを指摘した。柄谷行人ならば、江藤に対してと同じ言葉を東浩紀に向けるだろう。東浩紀ポストモダンの論客であり、「ファントム、クォンタム」が量子コンピュータ社会の未来を描こうとも、その問題意識は近代のままなのだ。ほぼすべてのSFに通ずるこの物足りなさは、たぶん本作の限界でもあろう。とはいえ、粗雑さまで柄谷とは共有したくない。私はまだ読み始めたばかりだ。
 前回の筋を確認して今回は終わろう。第二回を読んで「葦船往人」は「あしふねゆきと」と読むことがわかった。彼のところにメールが届く。居るはずの無い彼の娘からだ。差出人は往人本人である。往人は自分の精神の失調を思いながらも、娘との文通を始める。そして、2008年3月21日のメールの指示に従い、彼はアリゾナに向う。復活祭の二日前だった。
 ここには往人のふたつの勘違いがある。ひとつは、往人の文通相手は本当に葦船往人の娘、風子だったことだ。ただし、彼女は並行世界Bにおける葦船往人の娘であり、量子回路のネットを利用して並行世界Aの「父」と交信していたのだ。Bの時間はAよりも約三十年進んでおり、いまは2035年だ。往人Bは風子が二歳の2008年の復活祭にあったテロで亡くなっている、少なくとも彼女はそう信じている。もうひとつの勘違いは、往人をアリゾナに呼び出したメールは風子が出したものではなかったことだ。往人と風子の交信に介入した第三者のメールなのである。
 読者が戸惑うのは、アリゾナで2008年3月23日(日本時間24日)に往人が逮捕された、という記事である。容疑は自爆テロで、しかも、米連邦捜査局の発表によれば、葦船往人は「移送中に脱走し行方不明となった」とのこと。第二回を読むと事情を想像できる部分もあるが、はっきりしない。