卯月の一番、「新潮」4月号、橋本治「リア家の人々」

 「思想地図」とかその周辺の評論を読んでいて不快なところは、いまの世の中をわかってる、という物言いである。そんなことできるわけないのだ。時代は事後にわかるものなのである。「新潮」四月号の橋本治「リア家の人々」を読む快感は、人々が時代をわからずに、むしろわかろうとせずに生きていることにある。

 問題は、政治でもない、反戦でもない、思想の対立でもない。問題の中心は、既に出来上がっていた秩序を形成する人間達の「体質」にあったのである。

 あの一九六八年をこうまとめるのは、いわゆる神のごとき語り手による事後の観点だ。対して、この時代を生きる主人公にとってはこうである。

 しかし、文三にその理解はなかった。そのように理解すべきだと促す声もなかった。春の日の中、日本と世界の各地に散発的に起こる「騒ぎ」を知って、文三はただぼんやりと、「騒がしくなったものだ」と思っていた。

 文三に限らず、彼の家族みんなが時代をわかっていない。けれど、時代を生きている。そこがよく書けていて、なんとまあ、いかにもありそうな人の心理がこうもわかるもんだ、と感心しながら読んだ。その意味では主要登場人物すべてが、主人公として描かれる自分の場面を持っている。長女と次女の確執が特に気に入った。
 私の知ってる「一九六八年小説」の多くの登場人物は、あの時代の「騒ぎ」に、没入しているか、またもっと多い例として、疎外感をおぼえているかだ。どちらも「騒ぎ」に貼り付いている。けれど、「リア家の人々」の多くは、もちろん、状況に無関係ではないにせよ、たんに同じ時間の別の場所に生きているだけである。そして、それが大多数の姿であったんだろう、と思わせてくれる。