「現代詩手帖」二月号の討議から

 吉本隆明が『日本語のゆくえ』(2008)でゼロ年代の詩を評し、「「過去」もない、「未来」もない。では「現在」があるかというと、その現在も何といっていいか見当もつかない「無」なのです」と言った。結構話題になったらしい。一昨年まで私は寝ぼけていた。「現代詩手帖」2月号の討議「「戦示」を生きるということ」で、神山睦美が言及しており、それでやっと知った次第である。ちなみに「過去もない未来もない」とは萩原朔太郎「猫の死骸」の一節でもある。それは吉本の脳裏に引っかかってたはずだ。実際、あの詩の茫漠たる風景と結びつけると、「無」はイメージしやすくなる。「現在」については、『増補戦後詩史論』(1983)の「若い現代詩」を参照すべきである。朔太郎はともかく、少なくともこちらは必須の前提だ。さもなくば、ゼロ年代の詩を神話や伝説に転用できるかどうか、なんてことがなぜ論点になるのか、誰も理解できまい。討議でも、若い詩人たちは神山の言及に反発していたが、みんな吉本の「無」を理解していないと思う。
 久しぶりに「若い現代詩」を読み返した。吉本の「現在」は「世界」に読み替えた方が良かろう、と思った。彼もその線で説明をしている。情報のグローバル化した世界という意味での世界では、世界旅行をせずとも「世界」と言うだけで世界のイメージがつかめるように思われる。「言葉の世界がほんとの世界と同等の重さ、同等の総体性としてつかまえられるという根拠のもとに、一群の<若い現代詩>は書かれている」。セカイ系の世界観もこんなもんだろう。つまり現代詩は八〇年代にそんな表現を獲得しており、『日本語のゆくえ』によると、ゼロ年代はそんな世界さえ失っている。
 それって詩は結構進んでいるということではなかろうか。吉本だって身も蓋も無い蔑称として「無」と言ったわけではない。「現在の表現に関する状況は相当特異な状態だといえます。この特異さはやっぱり考えるだけの価値があるよというか、考えるだけの要素があるよといえると思います」。ただ、日本の詩が自然を失ったことと関連させて、彼がこの問題を考えようとしてるのは、筋が悪そうに感じた。討議で中尾太一はこう言っている。

 現在書かれている作品が、ある大きな世界の動きにかかわるという一般的な見取りで読んだら絶対に読めないところがあるよという、そこをやっているんだと。いま皆さんの前で、じゃあどういうことをやっているんだということを言うには、おそらくまだまだ時間がかかるだろうということは感じますね。

 そういうことなんだろう。詩は終わったのだ、と前に書いたし、そう思って詩から離れた頃の判断も間違ってたとは思わないけど、このままずっと終わったまんまでいる、と考えてしまったのは誤りだった。
 追記。「若い現代詩」の「神話や伝説」の部分を簡単にまとめておこう。純文学とサブカルチャーの言葉が接近してきた。「いわば両方から間あいをつめて、坐りなおさなくてよい通路が出現したのだ」。そのとき、「現在」の言葉は「個々の詩人たちの、無意識を超えた時代的なシステムを表象するまでになっている」。ものすごくわかりやすい言葉で書かれた流行歌の歌詞が、作詞家が意図しようとすまいと「現在」を表現する。「いまでは詩は、修辞として暗喩らしく振舞わないで、まったく自明な言葉を挟んでも何かわからないシステムの全体的な暗喩になっている」。ちょうど、東浩紀が論じたような、子供だましのアニメやゲームがポストモダンを表現している状況だ。吉本は八〇年代にそれを見抜いていた。この状況は「「現在」の詩とくに<若い現代詩>を、ひとつの説話、あるいは大衆的な神話、伝承を読むのとおなじ眼つきで読むというモチーフを強いている」。つまり、八〇年代の詩は神話や伝説に使える例だ。世界を語れたのである。そして、『日本語のゆくえ』では、ゼロ年代の詩が世界を語れなくなったことを「無だ」と述べたわけである。それゆえ私はむしろ中尾太一岸田将幸に期待してみたくなる。もう仮面ライダーが時代の感性を象徴するような状況は御免こうむりたいのだ。