閑話(その1、逆説の消失)

 二十数年ぶりに江藤淳『成熟と喪失』(一九七八)を読んだ。最初の方、安岡章太郎『海辺の光景』を論じたあたりである。いつまでも子離れできない母親が子を成熟させない、それが日本的な母子関係であると江藤は考えた。『海辺の光景』は格好の素材だ。ただ、主人公の母親は結末で自分の息子を見ても、それが誰かわからなくなってしまう。江藤は言う、「おそらくこのとき『海辺の光景』の主人公は、生涯ではじめて母親の拒否を感じたのである」。母が子を捨てたように見える。しかし、この部分の要点はこうだ、「かならず拒否された者の者の心に自分こそが相手を見棄てたのだという深い罪悪感が生じるということである」。捨てられた方こそ実は捨てる側なのだ。
 とても懐かしい気がした。昔の評論はこんな逆説に満ちていたよなあ。評論に限らず、詩や小説もこんな逆説をはらんでいたように思う。それが、割り切れない人間や人間関係をよく表現していた。最近は評論も小説も論理がすっきりして、ややこしい逆説は減ったのではないか。難解な詩でも、たとえば中尾太一岸田将幸の最新詩集をざっとめくったが、見当たらない。彼らの難解さはかつての現代詩の、「きみのものがある/きみのものはない」(飯島耕一)なんて逆説の難解さとは別物なのだ。ひとりの人間やひとつの人間関係を掘り下げるのではなく、時代や社会全体をスッキリと平均的に見渡す、見渡そうとする、という風潮が逆説を用済みにしたのだろう。追記。「見当たらない」は言いすぎ。
 逆説の無さは人間の表現を平板にする。昨年の「群像」の「創作合評」で誰か言ってた、「書かれた状況は特殊だけれど、主人公の発想は『真面目に働いてる人が報われるべきだ』といった凡庸なものだ」という意味合いの指摘はいろんな作品に当てはまる。最近では「すばる」二月号の原田ひ香「東京ロンダリング」がそれに近い。主人公は、アパートでの自殺など味の悪い形で空室になった部屋にひとまづ住んで、「その部屋に前まで住んでいた人」の情報を変えてしまう仕事をしている。たしかに書かれた状況は特殊なのだけれど、女性主人公の人間像があやふやだ。結末の彼女の行動について、「文学は面白いのか」は言う、「はあ?こんな度胸がある人間だったかよこの女性、いきなりの訪問者に怯える人じゃなかったの?」、的を得ており私は笑った。しかし、逆説に長けた作家なら主人公を、矛盾をかかえたまま豹変するひとりの人間として描けただろう。