閑話(その2、一般意志2・0)

 評論に逆説が減って読みやすくなるのは九〇年代くらいだろうか。個人よりも社会が論じられるようになったのもその頃らしい。「僕が院生時代を過ごした一九九〇年代半ばの思想的雰囲気をひとことで言えば」と東浩紀は書いている、「多くの人が指摘するように、「社会学の優位」ということになる」(「誤状況論」)。

 それは言い換えれば、人文社会においてさえ、世界や人間の本質を探究する態度よりも、世界や人間の現状をどう理解し、どのように変えていくのか、その具体的な方策につながる態度のほうが優位に立ったということである。したがって、それはある意味で人文社会の工学化と言える。

 たとえば、政府による盗聴に対抗するなら「言論で戦うよりも盗聴ができないネットワークを普及させちゃえばいい」、という工学的な知の時代である。いまならアーキテクチャ論として書かれたに違いない。彼が十二月から「本」で連載している「一般意志2・0」はその集大成になりそうだ。ルソーの「一般意志」は「工学的な知の時代」においてどう解釈できるか、どんな実現を考えられるか、という話になってゆくと思う。

 パーソナルコンピュータが普及しインターネットが現れた一九九〇年代以降、その「革命」が一貫して目指してきたものとは、グーグルの創業理念を借りれば、「世界中の情報を体系化し、どこからでもアクセス可能で有益なものにする」ことだったと要約することができる。そしてこのエッセイで、その「世界中の情報を体系化」というさりげないひとことがいかに二世紀半前の「一般意志」の構想と響きあっているのか、時代を超えた呼応関係について語りたい。

 一般意志、それは数学的に導出される。けっこう雑な要約をしてしまおう。たくさんのネットの書き込みによって一冊の本の評価を五段階で評価した場合、たとえばその平均値が一般意志の評価である。つくづく粗雑な要約ながら、浩紀の言う次の一点の確認には充分だろう、「ルソーの要点はただひとつ、一般意志が、人間の秩序の外部にあることにある」。たくさんの五段階評価が集まれば、その平均値が存在するのは必然である。それは人間たちの討論や承認によって決まるわけではない。
 こんな風に読めばルソーがわかりやすくなる、と浩紀は言う。「ルソーは一般に「矛盾」を抱えていると言われる思想家である。(略)しかし、もうおわかりのように、おそらくは矛盾など最初からなかったのだ」。彼のルソー論に逆説の入り込む余地は無い。人間を矛盾したまま立体的に練り上げるのでなく、矛盾を解消して「平板」に描く。一般意志それ自体が「時代や社会全体をスッキリと平均的に見渡す、見渡そうとするという風潮」から生まれたものにも思える。
 「われわれ各人は、われわれのすべての人格とすべての力を、一般意志の最高の指導のもとに委ねる」というのがルソーの社会契約だ。問題は、一般意志が本当に「一般意志2・0」の説くようなものであった場合、われわれがこんな契約を結ぶ気になれるかどうかだ。ポストモダンにおいて人間が動物化しているなら可能だろう。その点で、「一般意志2・0」が東浩紀の思想として『動物化するポストモダン』などとも一貫しているのは確かだ。