『1Q84』まつり続(その1)、「新潮」9月号

 「新潮」八月号と九月号に福田和也「現代人は救われ得るか」が載った。九月号には安藤礼二「王国の到来」も載った。
 いろんな書評を読んだので、それらのパターンも見えてきた。たとえば、青豆の行う正義は人殺しであって、リーダーの悪と大差無いことを指摘する者。福田はこの典型である。天吾だって正義の人ではない。福田は、天吾とふかえりの性交シーンについて、「これほど洗練されたペドフィリアの肯定はあり得ないだろう」と述べ、こう続ける。

 作者は、善なるものと悪なるものとの相対性、交換可能性を示しており、「ふかえり」と「リトル・ピープル」、善きものと悪しきものが、拮抗すると同時に入れ替わり得ることを「リーダー」と共に示しているのだ。

 福田の主張をもっと簡潔な引用でまとめれば、村上春樹は「悪の存在を徐々に希薄にし相対化し、善を悪魔的なもの、甘く滑らかな非道へと変容させようとしている」。間違ってはいないが、善悪の区別がつかないことは『1Q84』の世界観の前提でしかない。しかし、この種の書評は善悪への執着が読みの最前線になってしまう。
 安藤礼二は説話論的な構造を読み解いた。もしかしたら国文学では今でもこんな論文があるかもしれない。構造の破れこそ面白い、と思うのが私の世代だ。ところが、彼の方が五歳も年下なのであきれた。彼は永年自分で関心を持ち続けてきた構造が『1Q84』に「そっくりそのまま当てまはる」ことを嬉々として繰り返す。
 が、この『1Q84』という、完結したかどうかさえ疑われる、締りのゆるーい小説は、ユング式だろうと『金枝篇』式だろうと現代社会対応式だろうと、論者さえ巧みであれば、たいていの物語構造が当てはまってしまうだろう。『1Q84』のしたたかさだ。多くの書評はそこに呑みこまれて「書評パターンのひとつ」になってしまう。論者の方は自分が当てはめた手柄に酔ってしまい、『1Q84』に手なずけられたことに気がつけない。
 とはいえ、安藤論文は力作だ。私が最も熟読した書評である。近代天皇制を基礎づける折口信夫天皇論を、村上春樹は「そっくりそのままパラフレーズして、リーダーとその娘である『ふかえり』の関係を造形したのだ」というのが、着想の基本である。

 天皇は神の声を聴く者だ。しかし、神ではない、もう一人、神と天皇の間に立って、神の意志を直接に認識する者が必要とされる。

 これがパシヴァとレシヴァに重ね合わされることはわかるだろう。そこは面白いが、さらに安藤は、蓮實重彦中上健次三島由紀夫源氏物語大本教、伊勢の遷宮、を「あてはまる」話の輪に組み入れて、「古代と現代があいまいに結びつき、すべての差異が同一性のもとに回収されてしまう近代日本」を壮大に語り続ける。彼の言説自体が差異を塗りつぶす構造を持っているに違いない。
 安藤によれば、『1Q84』は、天皇をめぐるこうした「システムの真の姿を白日の下に曝し、『空気さなぎ』のようにそれを無数に散布しようとした」小説である。この引用は、「誰の目にも明らかになったシステムは、その機能が無効となる」と続く。これが本当なら、『1Q84』が売れに売れたことによって天皇制は支持を失い、遠からず変質するか消滅する。文学によって世界を変える、というこの種の健全な文学観の陥穽は09/06/22に述べたので繰り返さない。『1Q84』にはそうした面がたしかにある。安藤礼二にもあると思う。