如月の一番「新潮」2月号、福永信「午後」

 今年の二月号は低調かと思ったが、先月の福永信「一一一一」を読んだ後では、「新潮」の「午後」に当然期待する。そして、とても良かった。まだ知名度の低い作家たちの中では私のイチ押しになった。偽日記@はてなによると、「「新潮」二〇〇七年十二月号の「ここ」と「あわせて読むことをお勧めしたい。面白さが何割も増すと思う」とのこと。ならば、と読んだら「ここ」は姉妹編だった。A、B、C、D、の四人がそれぞれほぼ独立した物語の主人公である。一人が一段落づつを担当してひとつのユニットを構成し、それらを全部で九つ集めた断章形式だ。もっと簡単に説明すれば、吉岡実「僧侶」の小説版である。主人公たちに死の影が漂うあたりも似ている。
 詳しい解説は上記ブログに譲る。これをさらにたどって、昨年の「新潮」五月号の古谷利裕「中学生以上と小学生以下、現実世界と冥界」に行き着いた。福永信論である。いまは『人はある日とつぜん小説家になる』に収録されてるらしい。福永作品では「全体性への指向が消失する」という指摘があった。

 ここでは、一つ一つのエピソードの小ささ、ささやかさが重要であろう。それは全体を構成しないが、ある最低限の完結性(かたち)をもつ。だがそれはささやかなものであり、細部が別のエピソードへと関連し、響き合い、ずれ込んでゆき、また分離する、という動きの自由を拘束しない。

 「全体像へと向かう求心力を常にはぐらかす細部の運動こそが魅力的なのだ」ともある。前に私が引用した磯崎憲一郎の言葉を思い出そう、「僕の小説は、要約が基本的に馴染まないんですよ。具体性の積み重ねだけなんで」。磯崎にも全体性への志向が消失している。彼の「絵画」の言葉たちは「具体」においてかろうじてつながるだけだった。福永における「細部」と磯崎の「具体」は似ている。同様の志向を有するもっと多くの作家の名を挙げることも可能だろう。そんなの後藤明生の昔からあるよ、とも言えるが、その類似や相違は現在の作家を論じる観点として有効ではないか。