福永信『星座から見た地球』

 A、B、C、Dという四人の子供の話を福永信はあちこちで書いている。このブログで扱ったものでは「午後」がそうだ。それらをひとまとめにした本が『星座からみた地球』である。小さいけど、装画と装丁を三十三人で担当した洒落た本だ。一頁弱かけてAについてちょっと語る。同様、B、C、Dについてもちょっと語ってワンセットの話になる。それを三十余篇集めたものだ。
 ひとまとめにしたことによって、作品の全体像はむしろ混乱を増したのではなかろうか。きまじめに読んでくれた書評が共通して述べている。たとえば、ある話におけるAが、別の話ではBのことであるかのように書かれている、あるいは、ある話におけるAは子供だろうけど、別の話のAは猫のようにも読める。AはBなのか、Bは猫なのか、まじめに考えるとつじつまが合わない。
 がらっと話を変えて、こんな小説を考えてみる。枕流という小説家が主人公で、彼は『三四郎』を書き、『門』を書き、『明暗』を途中まで書いて死ぬ。枕流の友人には漱石という噺家が居る。さて、これは「夏目漱石が別の名前だったらどうなるか」という小説だろうか。それとも、「漱石噺家だったら」という小説だろうか。どっちでもよかろう。枕流が漱石なのか、漱石噺家なのか、作品の中に答は無い。それを決めるのは作品を見渡す解釈者だ。解釈者とはいわば、小説世界を星座の高みから見る者である。
 『星座からみた地球』もそんな風に考えたらいいのではないか。ABCDの関連を本の中で地球を探ってもわからない。関連を付けたいなら、星座からの解釈者にならないといけない。
 三十余篇それぞれは、AがBだったり、Bが猫だったりの並行世界と見なすことが可能だ、ということだ。すると、本作も最近の傾向を代表する小説ということになる。あらかじめきちんといろいろ決めて、それを守って世界を設定しておけば、書評家を戸惑わせる不整合の生じるおそれは無いかもしれない。様相論理学の可能世界なんか、きっとそんな風にきっちり構成されてるんだろう。でも私としては、いかに厳密に決めようとも、解釈者による世界の読み替えは可能なんだ、と考えたいなあ。
 そして、さらに付け加えて、人は星座の位置から地球を見ることはできない、と。ABCDの関連づけをあきらめて読み返すところで、やっと読み始めだ、と思いたい。