冨永昌敬『パンドラの匣』(太宰治原作)

 冨永昌敬パビリオン山椒魚」はひどかった。新人が映画をなめた、ありがちの駄作だった。二度とこの監督の映画は見なくていいという確信を得られたのだ、決して金と時間の無駄ではなかった、そう自分を納得させて帰路についたものだ。太宰治パンドラの匣」が映画化されて、窪塚洋介川上未映子が出るという。しかし、監督がこいつと知って一気に萎えた。ところが、妙に評判が良い。特にまどぎわ通信が「空気がいい」なんて、私のツボを押すのでだんだん見たくなってきた。運よく上映最終日が仕事の無い日だったので出かけた。
 素晴らしい映画だった。原作との比較や解説は上記ブログに任せておく。私が付け加えて書くとすれば、初めて未映子の登場する場面だ。バスに軽く揺られている。首筋を露わにしており、震動に合わせてうなじにさざなみが薄く渡る。座席に身をもたせかけた姿勢から、投げやりな風情が漂う。見始めてすぐ観客を細部で魅了するのは、傑作の特徴のひとつだ。そして、これは意識的な演出だった。このあと何度も彼女のうなじが画面に広がる。また、彼女のけだるさはこの映画の重要な「空気」の成分だ。もちろん窪塚もいい。
 なお未映子は「文学界」十月号に随筆「恍惚と不安のふたっつ、我にありあり」を書いて、この映画で看護婦を演じた体験を語っている。これによると、文章で作家に使われる単語の気持ちを知りたいから、映画で監督に使われる役者の気持ちを体験してみよう、というのが出演の動機だったようだ。撮影現場を一目見た彼女は、「小道具や衣装や大道具のあまりの本気度に『これってマジの<ごっこ>やないの!』と頬はめらめらと紅潮し、両手をにぎりしめて興奮したのであった」と感動する。そして最後には<ごっこ>を忘れた境地に入ってゆく。神秘的で意味が私にはよくわからないが、彼女には意味深い経験だったようだ。

 物語をもった人間がべつの物語に入ること。単語の気持ちはどうなった。無数にあった一回性に、いまも無数の一回性が重なってゆくさま。向こうから同じく制服を着た看護婦が笑いながらやってくる。彼女らはいったい誰だろう。知ってる。知らない。でも知ってる。わたしはそれを知っているのだ。懐かしい、という言葉をわたしはこれまでに数えきれないくらいに使ってきたしそこで何が起こっているのかを知ってるつもりでいたけれど、このときほど懐かしいという言葉のぜんぶを、体の深いところからこんなふうに理解したことはなかった。

 さて、映画館を出た私は書店に向かい、二冊の新刊、『世界クッキー』と文庫化された『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』を買った。未映子づいてきたぞ。