永井均『道徳は復讐である』(『ルサンチマンの哲学』文庫化)その2

 文庫化にあたって巻末に加えられた永井均川上未映子の対談は、やはり面白かった。まづ、断片的な例からいくつか挙げてみよう。「ニーチェを読んで元気が出るような人間ではダメだ」なんて発言が出てくる。これが何を意味しているかは前回に書いた。また、「男子のセックスは量のセックスで、女はやっぱ関係性だ」という説の一部が簡潔明瞭に批判されている。これが斎藤環の持論を指してるのもわかる。ほか、「死刑になりたくて」という理由で通り魔になった男がいたが、彼は永井の愛読者だった、なんてエピソードも紹介される。
 そんな小ネタを楽しみながら読み終えるだけで、永井倫理学の入門コースを修了できてしまう、という対談だ。要点をまとめると、ある行為が悪であるという証明ができたとしても、そこから、その行為を禁止させるような理論を得ることはできない、ということだ。そして、その観点でカントを読み、永井は驚くべき考察を導く。

 もしカント的意味で絶対的にしちゃいけないことが存在するなら、ただそうであるがゆえにそれをしたいし、できる。いけないということそれ自体が、それをする動機になってしまう。(略)天使的なものは必然的に悪魔的なものに転化しうるって水準の話なんですよね。ところが場合によってはそれに近いことが可能だっていうのが人間の恐ろしいところで、カントっていうのは動機は違ったけど、実はその構造を見せちゃったんですよね。

 なるほど通り魔に読まれるわけだ。人殺しは悪いことだからやった、という人間を論破することはできない。ニーチェの解説書ながら、「これはニーチェを超えて怖い問題ですね」。それを受けて、「ニーチェのパワーでカントの枠組みを」と望む未映子も良い、「こういう小説書きたいですよね」。日付は五月十五日だ。『ヘブン』を書いてる最中だろう、と思うと気になる。