現代訳ウェーバー『職業としての学問』(三浦展訳)

 1917年のドイツの講演である。大学教員のあるべき姿が説かれている。ただ、そう読んでしまうと、われわれの実感には合わない面ばかり目立つ。しかし、訳者はこれを現在の日本社会全体の文脈に置いても読めるものとして提示した。「現代訳」と銘打ってるのはそういう意味である。
 ウェーバーは繰り返し、「大学教員が教室で指導者気どりで話す状態が放置されていること」の危険性や間違いを攻撃する。1917年はまだ第一次世界大戦の最中だ。私に連想できるのは映画『西部戦線異常なし』の冒頭と最後に出てくる学校教師である。軍隊に志願して国のために戦うことの素晴らしさを狂信的な情熱で語るのだ。当時の大学の教室もあんなだったとすれば、ウェーバーの立場や講演の意義もわかる。逆に言うと、訳者の期待するような読書はできない。
 トルストイを引用しながらウェーバーは述べる。現代には「真の幸福への生きる道」を示してくれるような「意味ある解答」を学問に期待するのはおかど違いである。そんな要望があったとしても大学教師はそれにこたえてはならない。彼の理想の講義は次のようなものだ。

 教室では、たとえば教員が民主主義について語る場合は、まず民主主義にもいろいろな形態があることを説明します。次に、それぞれの民主主義がどう機能しているかを分析し、社会の中でどのような結果をもたらしているかを事実として確定し、そして民主主義ではない他の政治体制と比較します。こうして最後には、聴講者各人が民主主義に対する自分の態度を、自分の究極の理想から決める地点を発見できる状態になれるように教員は努力するのです。

 けっして「なんらかの立場を押しつけることがないよう用心」しなければならない。しかし、かくも明確に事実と主義主張とを分離できる、と考えるまともな学者は今は一人もいないだろう。現代の言葉として私が読めたのは唯一次の箇所だけだった。

 現代では、最高の芸術品ですら私的な慰みのためにあるだけで、まったく記念碑的なものではなくなりました。(略)もし今、芸術に記念碑的なものを感じることを人々に無理強いしたり、発明しようとしたら、過去二十年にできた多くの戦争記念碑によく見られるような、惨めな失敗作が生まれるだけでしょう。

 大きな物語の終焉をウェーバーは語っている。ただ、それだけに、いま大きな物語の終焉を語る人は、ぜんぜん現代を語ってるわけではないのだろう、とも思う。私の言いたいのは、古典を「いまとおんなじことが書いてある本」として読ませようとする戦略は間違っている、ということだ。