「文芸」冬号、文芸賞、大森兄弟『犬はいつも足元にいて』

 文芸誌五誌どれかの新人賞を獲ったら次に芥川賞三島賞などを狙う。この階段をなんとか上りきれる確率は三割ほどではないか。もちろんゆくゆくは読売賞や谷崎賞も獲らねばゴールではない。おもしろうてやがてかなしき新人賞、という気分になる。九〇年代の新人賞受賞者を確認したが、いまも作家として名があるのは五人くらいだ。特に新潮新人賞は全滅である。
 今年の新人賞受賞作は六つ。その作者のうち生き残れるのは一人かゼロか。それをいま当てるのは意味が無かろう。ただ、応援したいなあというのはあって、文芸賞の大森兄弟だ。兄弟だから実は二人である。せっかく二人で書くのだから異なる作風を混在させるのが面白いかとも思うけど、受賞作「犬はいつも足元にいて」は一人で書いたように読める。
 主人公の男子中学生になれなれしくまとわりつく友人サダが印象に残る。サダはごく自然な同級生としての付き合いを成立させようとして、必死に自然を装って声をかけてくる。その涙ぐましい努力が痛々しく、主人公は鬱陶しいのだが、振り払うのもまた鬱陶しく、適当に付き合っている。そこがサダに付け込まれるスキにもなっている。サダはすがるようにしてそのスキにからんでくる。彼は主人公をゆするまでになるが、それは金が必要だからだけでなく、どんな関係であれ主人公との関係を維持したいがためだろう。
 結末が近づくにつれ、サダにたいする主人公の悪意が増幅する。ついにそれが一線を越えた時、自分でも意図のわからないうそをついて、彼は自分の生活と現実を壊してしまう。もともとそうしたかったのだろう。ところが最後になると、根拠も無い確信が彼に訪れる。何も変わらないはずだ、と思う。題名は、そんな変わらない現実の一例だ。壊してみて初めて、その壊れにくさに気付いたのだろう。かくて主人公は現実というものの手触りを覚えてゆく。
 こんなふうに要約して私は本作を物語に回収してしまった。手慣れた伝統芸だ。これでは大森兄弟はともかく私がだめだ。新潮新人賞の赤木和雄「神キチ」のような作品を選考委員みんなが面白がる虚しさと並ぶ、文学の終りの風景の典型である。ちなみに、ゼロ年代の新人賞を獲ってまだ次の賞を得てない作家のうち、私が応援したくなるのは、千頭ひなた、藤野可織、喜多ふあり、飯塚朝美だ。天埜裕文は応援しなくても何とかなるだろう。