小谷野敦『現代文学論争』(その2)

 私の記憶では、スペースシャトル・チャレンジャー号の事故は日本でも中継されていた。見ていたと思う。キャスターは久和ひとみで、これは間違いない。シャトルが分裂する間、しばらく無音の時間が流れていた。私は「これは事故なのかな」と思った。久和の何年か後のエッセイを読むと、彼女は「事故だ」と思った。けれど、黙っていた。確信できなかったからである。今となれば、事故であることはあまりに明白な映像だ。あたりまえのことをはっきり言うのはすごく難しい。その例として私はよく思いだす。慎重に思考するほど混乱してしまう。私は、「事故が起こった場合の想定映像なのかな」とさえ考えながら、沈黙の画面を眺めていた。たぶん正しい記憶だ。ただ、確信が無いなあ。そして、ヴィトゲンシュタインの説く通りで、正しい証拠と推論の積み重ねによって確実性ある発言が得られるわけではない。
 小谷野敦現代文学論争』は、少なくとも本人に確実なことはばんばん言い切っている。村上春樹は通俗作家であるとか、田中和生は実力が無いとか、『石に泳ぐ魚』が訴えられた理由には顔の腫瘍の描写とは別の事情があるとか。田中ついては、私も前から漠然と感じていた。『魚』については、オリジナル版の腫瘍の描写に作者の悪意を感じ、それが裁判を招いたと思いながら別に「別の事情」も漠然と感じた。その程度で私は黙ってしまう。田中の変な発言を挙げるのがせいぜいで、田中のレベルが低いとはなかなか思いつかない。そこを小谷野は言える。よく考えてのことかどうか、それはどうでもいい。とにかく彼が言ってくれるおかげで、そうだよな田中ってやっぱどうでもいいよな、と気づける自分がいる。
 全十七章のうち一番まとまっているのは「たけくらべ」論争と「春琴抄」論争ではないか。前者は彼独特の毒が薄くて小谷野ファンは物足りないかもしれない。私には懐かしい論争である。納得のゆく部分があった。後者は、行燈の灯が消えた事情の説明に「あっ」と驚いた。詳しくは別の本に書かれているらしい。「納得のゆく部分」について書いておこう。論争の当時、私は佐多稲子前田愛の応酬を読んでいて、よくわからなかった。そこを小谷野は、前田の論が「迷走」しており、佐多は前田を「誤読」している、と解説した。そうだ。言われてみればそうなのだ。散り散りになったシャトルを見て「事故だ」と言えば良いのと同様、「迷走だ」「誤読だ」と私は判断すべきだったのである。本書が言ってくれたおかげで二十五年ぶりに気づけた。もっともこれも記憶で書いてるだけで、佐多と前田を読み直したわけではない。