霜月の一番、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』第三夜以降

 読むことをめぐる佐々木中の第三夜は、イスラム教の教祖ムハンマドについて語る。ムハンマドの最初に受けた啓示とは「読め」だった。そして、佐々木が強調するのはムハンマドの特殊性である。法の起源に関するフロイトの説明と対比させて言う、ムハンマドは「暴力を先行させていない」。暴力無しの革命については第二夜で触れた。
 この話題が終わるあたりから、佐々木の罵倒が続く。オウム真理教を罵倒し、アガンベンを罵倒する。続く第四夜、最後の第五夜でも吠え続け、「文学の終焉」を説く連中はさっさと文学をやめればいいのだ、と罵倒の限りを尽くして終わる。話が単純になってしまうのが罵倒一般の欠点で、本書も例外ではないと思う。最初の二夜だけで読み終えてもいいかな、という印象をもった。それでも、第四夜は教えられることが多く、第五夜は愉快だった。
 第四章は中世解釈者革命について。『夜戦と永遠』でも論じられている。十一世紀末に発見された膨大なローマ法を読んでしまった人たちの話だ。読んでしまった以上、そのとおりに生き、そして書かねばならない。それが革命だ。かくて、壮大なキリスト教会法が成立した。「ヨーロッパ全体を統一するキリスト教共同体」すなわち「教会」が成立したのだ。佐々木の言いたいのは、この革命が苦々しい「情報の世界」をもたらしたことだ。でも私は、ここでは脇道の話をしたい。
 教会法を佐々木が国際連合の取り決めと比較するとき、ふたたび柄谷行人『世界史の構造』との違いが現れる。教会の定義からわかるように、教会法は聖職者だけではなく一般庶民の生活まで包括する。一言でまとめれば、子供を生み育てるための法だ。『世界史の構造』の用語を使わせてもらえば、交換様式Aに根ざしている。だから強固なのだ。対して、国連は「宙に浮いている」と佐々木は指摘する。言うことは立派でも、たくさんのことが実行されない。理由は「国連には子どもがいない」。国連に期待する柄谷と対照的である。交換様式Dのもろさを佐々木はしてくれたと思う。
 第五夜もちょっと。文盲率の話だ。ドストエフスキーのロシアの文盲率は九〇%だったという。それでもドストエフスキーは『罪と罰』を書いたし、『罪と罰』は滅びなかった。佐々木は言う、日本の文芸誌の売り上げが落ちていると言っても、ドストエフスキーの状況と比べれば、笑ってしまうような「文学の危機」だ。私には佐々木が自分に都合の良い例を挙げてるだけのように思える。別に、「新潮」や「文学界」がよく売れていたとしても、たとえば柄谷行人の主張するような意味での「近代文学の終焉」論は成立する。