文学界10月号、鼎談「ありうべき世界同時革命」

 「文学界」十月号で『世界史の構造』をめぐって、著者柄谷行人大澤真幸岡崎乾二郎と鼎談してる。柄谷が日本国憲法第九条に言及してる部分で、ちょうど二〇年前の本を思い出した。岩井克人との対談書『終りなき世界』の最後のところだ。

 よく日本は、西洋に対してもアジアに対しても何一つ提示すべき原理がないと言われる。しかし、一つだけはある。それは平和憲法です。ぼくは、日本がいまさら軍事力を行使しても無駄だし、決してうまく行かないと思う。だから、いかなるかたちでも戦争を放棄するということを言いつづけていけばいいのです。それは非現実的だという連中のほうがずっと非現実的だと思う。

 九条を掲げて世界に発信し、「平和、平和」と言い続けろ、と当時は蓮實重彦との対談でも言っていたような記憶がある。唐突に言い出すので、奇異な印象を受けたから覚えていた。いま『終りなき世界』を見返してもそれは変わらない。そして、『世界史の構造』を読んだ後では、その直前の発言の方が目に付く。

 昔、上山春平が書いていたのですが、この憲法戦争放棄という条項は、たんにアメリカ占領軍が日本の軍事的復活を恐れて強制したというのではなく、第一次大戦・第二次大戦を経た西洋諸国の理想、世界史的な理念を祈りのように書き込んだものではないかというのです。

 『世界史の構造』を読んだ者にはわかるだろう。世界戦争を経てこそ人類は世界平和への試みに踏み出す、という発想がすでに出ている。大きな違いは、この日の柄谷は「世界戦争はもう終わっている」という考えであることだ。そしてそれをヘーゲルの「理性の狡知」で説明していることだ。いまの柄谷は、世界戦争が近づいていると述べているし、その後に平和への歩みが始まることをカントの「自然の狡知」で説明する。
 鼎談での憲法第九条に関する発言を適当に引用しておく。二〇年前と変わらぬ部分と、『世界史の構造』と重なる部分と両方が読み取れよう。

 僕が考えたのは、憲法九条を実行に移す、ということですね。(略)軍備放棄というのは、別に非現実的ではない。(略)軍備の放棄とは「贈与」なのです。贈与された側はそれによって拘束されます。たとえば、日本が国連総会で憲法九条を実現すると宣言し、先ず沖縄の基地を廃止し、段階的に日本の軍備を廃止するといえば、どうなるか。ほかの国はどうするだろうか。先ず仰天するでしょうね。未曾有の出来事だから。しかし、人類の歴史では、それはむしろありふれています。それが贈与による社会契約なのです。(略)この憲法九条は日本の侵略戦争に対する歴史的反省としてある。だから、憲法九条を実行することが、真に反省を示すことである。実際の所、日本が世界にリーダーシップを示せるのは、それだけです。

 私が連想したのは、いぢめの被害者が教室で「けれど私は仕返しをしません」と宣言する姿である。カント的と言うよりは、ニーチェ的なルサンチマンを感じてしまう。柄谷の言っていることは、これはこれで、米中露に勝てない者が勝ちたいという戦争の裏返しではないか。