新潮10月号、特別対談「書くことと生きることは同じじゃないか」

 吉本隆明よしもとばななが対談している。一か所だけ、吉本の発言が、読んでいて「ああそうだったか」と昔の彼を思い出させてくれた。

 家族や親族というのは、本来一人の男性と一人の女性の性的なつながりから発展した集団で、これは他のどんな社会集団ともまるで違う。そのことがわからないようじゃ、ダメだと思っています。
 僕は、前からそう考えていて、プロレタリア文学を批判する時でも、あいつらは政治と家庭、家族という集団を同じものだと考えているというのが批判のしどころだったし、今でもそうです。一対の男女から始まった集団と、社会的、政治的必要から同じ意見を持つ者が集まってできた集団は、まったく出所が違うことをはっきりしておかないと、いろんな間違いを起こします。僕はそう思います。

 当然私が思い浮かべたのは柄谷行人『世界史の構造』である。彼は家族から国家、世界にいたるまで、「交換」で考えようとする。『世界共和国へ』でもいい、

 たとえば、親が子供の面倒を見るのは、贈与です。その場合、子供は大きくなって親にお返しをするかどうかわからないが、少なくとも、「恩」を感じる、あるいは債務感をもつでしょう。それはここに一種の「交換」があることを意味しているのです。互酬とは、このように、むしろ交換とは見えないような交換です。

 前にも述べたとおり、家族レベルの交換の説明に、私はもともと違和感をもっている。吉本を参考にして、ここは、国家間の交換モデルで家族まで考えるのはおかしい、と言ってみたくなる。『共同幻想論』の「対幻想」を読み返そうにも、さて、家のどこに沈んでいるのやら。