奥泉光『シューマンの指』(その1)
シューマンの不思議を言うと、名曲は無い。名演奏がたくさんある。ピアノ五重奏曲のような優等生的「おクラシック」が、バリリとデムスの共演によってめでたく響くことに私は感嘆してきた。ショパンなら、曲が優等生的な場合は演奏も多くはそんなもんだ。奥泉光『シューマンの指』の永嶺修人と私のシューマン観あるいは音楽観は大きく異なりそうである。
「実際に演奏すれば、どんな名手だってミスタッチはする。それは避けられない。実際にどんな音を出したかなんて、どうだっていいんだ」
「だったら、ピアニストは、どうすればいいんだろう?」
「簡単なことさ」と修人は、いつもの諧謔と冷笑が一緒になった表情をすいと取り戻していった。
「弾かなければいいのさ」
中世では音楽(ムージカ)は三つのタイプに分類された。(略)「ムージカ・ムンダーナ」とは「宇宙の音楽」を意味する。天体や地球、つまりマクロコスモスの作りだす音楽であって、これは耳に聞くことのできないムージカである。同様に、「ムージカ・フマーナ」は「人間の音楽」、つまりわたくしたち人間の精神および肉体、ミクロコスモスを律する音楽で、これも聞くことのできないムージカである、けっきょく、現象として鳴り響き、耳に聞くことのできる音楽、つまりわたくしたちのいう「音楽」とは、最後の「ムージカ・インストゥルメンターリス」ということになる。
中世の音楽理論について、この引用しか私は知らないし、それ以上に知ろうともしてこなかった。なのに、私はこの一節を思い出すことが何度もある。ムージカ・ムンダーナにつながりそうな音楽観に触れることが何度かあるからだ。宇宙は音楽に満たされている、という発想である。『シューマンの指』でいちばんそれを感じさせるのが、次の場面である。 「シューマンはね、突然はじまるんだ。ずっと続いている音楽が急に聴こえてきたみたいにね。たとえば野原があったとして、シューマンの音楽は、見渡す限りの、地平線の果てにまで広がっている。そのほんの一部分を、シューマンは切り取ってみせる。だから実際に聴こえてくる音楽は、全体の一部分にすぎないんだ」
「だとしたら、その聴こえない音楽はどこにあるんだろう?」(略)
「ほら」と、私が目を開けたとき、修人は額に手をかざして公園を見回した。
「音楽はいまも聴こえている。それはいまここにあるよ。耳を澄ませば聴こえる」
シューマンの楽曲は、ずっとどこかで続いていた音楽が、急に聴こえてきたようでなければならない。それは「露頭」みたいに突然に現れて、遥か地平線まで続く眼に見えない「地層」の存在を思わせるようでなければならない。−そう述べた修人は、一番分かりやすい例として、歌曲集《詩人の恋》Op.48 をあげていた。第一曲のピアノ前奏は、「まるで、音楽室の扉をあけたら、ふっと聴こえてきた音楽のようだ」と修人が書いていたのを、私は印象深く覚えている。
うまいことを言う。本当にそうだ。切り取られた音楽として考えれば、いろんなシューマンの断片性も理解できる。強いて修人に抵抗するとすれば、「シューマンの音楽は、見渡す限りの、地平線の果てにまで広がっている」というあたりだろうか。そこまでスケールの大きい作曲家としては聴きにくい。いつかはこれにも納得してしまうかもしれないけれど。追記。NHKのBS2「週刊ブックレビュー」(2010年9月4日)での著者本人の発言によると、シューマン論に関することは、本書の後記にあるとおり、かなり参考文献を利用している、とのこと。