奥泉光『シューマンの指』(3)

 永嶺修人がこんなことを言う、「シューマンが作曲を始めたのが、ポスト・ベートーヴェンの時代だったということは、決定的だったと思うな」「あの三二曲のソナタのあとで、いったいどんなふうにソナタを書いたらいいんだろう?」。ベートーヴェンの後で書く、というプレッシャーは、たとえば吉田秀和が「ローベルト・シューマン」(『主題と変奏』一九五三)で論じている。『シューマンの指』巻末で奥泉光が挙げた参考文献に、吉田秀和シューマンを論じた一巻があるのはそのためだろう、と思っていた。
 では、他の参考文献はどんなふうに参考にされたのか、興味があった。何冊か読めたので、書いておこう。門馬直美やブリオンの本は、たぶん伝記的な事実や音楽の解説が使われたのではなかろうか。シュネデール『シューマン黄昏のアリア』からはこんな一節を見つけた。
  「クライスレリアーナ」の冒頭部を聞いてみよう。途中から入り込んだ感じが強くする。
 これが、永嶺修人の、「シューマンはね、突然はじまるんだ。ずっと続いている音楽が急に聴こえてきたみたいにね」云々というセリフの元ネタであることは間違いない。作家は元ネタをこんな風に美しく仕立て直すものなんだなあ、と感心した。なお、「クライスレリアーナ」の冒頭について永嶺修人は、「いきなり断ち切られ血がほとばしる」ように弾かれねばならない、と述べている。
 最後に、ネタバレになることを書きつけて終える。結末で仕掛けが明らかにされる小説だ。これについて、「きらら from BookShops」というページのインタヴュー奥泉光は、「僕は小説をメタフィクションにするのが自然な生理だと思っています。小説内現実は虚構であるということをどうしても示したくなる。なぜかと聞かれると困っちゃうのですが、でももっと大げさにいうと、現代作家は誰もがそう感じているように思うんです」と答えている。メタフィクションという観点で結末を論じるのは間違っていない。ただ、もう一点、最近の小説の特徴として、「もうひとりの私」や「私の複数性」を描くということも、『シューマンの指』の結末には当てはまる、ということを付け加えたい。