吉増剛造『キセキ-gozoCine』

 言葉で書いた通常の詩はとうぶん書かない、と吉増剛造は述べているらしい。『表紙 omote-gami』を読む観るだけで、私にも想像できたことではある。かわりに彼が2006年から始めたのが、デジタルビデオカメラによる短編映画だ。「ゴーゾーシネ」と名付けられたそれが、十九本そろって一枚のDVDに収まった。全194分の8190円。観るのも買うのも吉増ファンでないとためらってしまうかもしれない。それでいいさ。
 十九本すべて、残像が強く残る撮影だ。わざと画にブレを生じさせている。「くっきりと見えたり聞こえたりするものは少しおかしいという感覚が僕にはある。これこそ僕の目が考えていた視覚だと思った。カメラを持った舞踏といってもいい」(asahi. com、4月11日)。初期の疾走のイメージも残像を曳くためだったか。
 私は吉増剛造の詩について、「わりと早い段階から彼は、詩や詩的な風物に感じ入る自分を語るようになった」と09/04/10に書いた。剛造はこれを映像で行おうとしている。つまり、詩や風物をそのまま撮影して、彼が見て聞いて感じていることをそのまま伝えようとしている。彼が感じとるのは、場の気であり、たしかにそれはくっきりと場から孤立した対象としてではなく、ぶれて場と混じり合って消えてゆく残像として撮るのがふさわしい。
 最初の一本はさすがに稚拙で、この意図が伝わってこない。ところが、本数を重ねるごとに工夫と洗練が加わり、何本かが成功作になった。完成度の高い優等生を一本だけ選ぶなら「クロードの庭」だろうか。しかし、あえてざっくばらんな一本を選ぶ方がふさわしいかもしれない。
 彼の工夫とは、いろんなものを重ね合わせることである。剛造の男声日本語に妻の女声英語を重ねる。さらにジョン・ケージの音楽を重ねる。また、カメラの前方に貝や石をぶらさげて風景に重ねる。さらに、鏡花や折口、朔太郎など文人の肖像フィルムを重ねる。おかげで、何を言ってるのか聞き取れないし、何が映っているのかわからなくなる。それに残像の効果も加わって、機材はデジタルでも出来上がりはおぼろである。イメージは溶け合って、決してごちゃまぜにならない。『表紙 omote-gami』も二重露光を多用して同様の効果を得ていた。CD版の「石狩シーツ」も自分の声に自分の声を重ねていた。
 引用を繰り返せば、「くっきりと見えたり聞こえたりするものは少しおかしい」ということだろう。物事は見聞きして理解すればいい。しかし、場の気については、見ては見えないし、聞いては聞こえない。だから剛造は、見せずに見せよう、聞かせずに聞かせようとする。すると、『キセキ-gozoCine』のおぼろな画面になる。誰か彼に資金を与えてせめて30分くらいの作品を作らせてあげてほしい。
 最後に。「人間、狂うために生れてきたもの」とは「独立」の一行である。初めて「疾走詩篇」を読んだり、「石狩シーツ」を聞いた者は、吉増剛造が狂人であることを確信できよう。『表紙 omote-gami』や『キセキ-gozoCine』では、それが弱まって、作品はわかりやすくなってきた。かつての作品に比べ、はるかに良いマスコミ受けに象徴的である。映像表現がそんな性質を持っているのか、それとも吉増剛造から狂気が失せつつあるのか。私は前者かなと思う。