村上春樹『1Q84』Book2(その1)

 月はふたつあるのだ。ふたつめの月は、ひとつめの影にあたる。ひとつめが主で影が副というわけではなく、ふたつでひとつだ。ほとんどの人はひとつめの月しか見たことが無い。ただしパシヴァ(知覚者)なら見ることができる。また、レシヴァ(受容者)の資質がある者は、パシヴァを介して月をふたつ見ることができるようになるだろう。パシヴァの知覚は個人的なものだが、レシヴァによって社会的に共有される契機を得る。
 人も影を持つ。それはドウタと呼ばれる。いつも見えている面はマザだ。心はドウタとマザでひとつだ。もしかしたらドウタに個性は無いかもしれない。人間はすべて同じドウタを共有している、と考えてみよう。それら人類のドウタの膨大な集積がリトルピープルだ。リトルピープルは空気さなぎを作る。空気さなぎの中にはマザから切り離されたドウタが宿る。そのドウタを通路としてリトルピープルは、力を現実に及ぼす。
 なぜ影の月が見えないのか。見えないのではない。影の部分を見たくないだけである。自身のドウタならなおさらだろう。人は自分の暗い面の存在を認めたくない。そこで、隠す。清く正しい面のみで生きようとする。自分に対しても他人に対してもそう振る舞う。社会全体もそう振る舞う。ところが、それではリトルピープルの抑え込まれた力が蓄積されて強くなる一方なのだ。健全な社会ほど、無自覚なまま残忍にゆがんでしまう。
 さきがけという清く正しい集団があった。初期にはあった暴力的な要素も排除され、完全に無垢な存在としてつつましく運営されようとした、まさにその時、リトルピープルがここに現れる。ふかえりのドウタをパシヴァとし、さきがけのリーダーをレシヴァとして、次第にさきがけはゆがんだ集団に変質してゆく。おそらく、暴力という暗い面を扱うにあたって、排除という抑圧を選んでしまったのが、変質のきっかけだ。
 マザとしてのふかえりはその危険性を察知し、さきがけを脱出する。そして、天吾というレシヴァを得て、彼女の知覚を小説に仕上げてもらう。この小説は大評判をとり、影の存在だったリトルピープルを広く世間に知らしめることになる。それは、影のまま抑え込まれてこそ強くなるリトルピープルにとっては危機だった。かくて、ふかえりと天吾、そしてその近親者はリトルピープルに狙われ、ある者はこの世から消されてしまう。
 ところが天吾は助かる。これについてふかえりは、自分との儀式によって救われたと主張する。しかし、彼女は自分のドウタとリーダーとの行為を真似したにすぎない。でも、儀式のおかげで、天吾は青豆を思い出すのである。青豆を探す、という目標が彼の生きる力になる。ところで、天吾の知らぬ間に天吾を救ったのは青豆の献身だった。天吾は青豆に会えるのか。彼の想像力と創造力にかかっていると思うが、そこで話は終わる。
 たとえリトルピープルが弱まったとしても、それと同じものが、別の形、別の名前で力をためてゆくだろう。それを明るみに出す新たな物語が書かれぬ限り、ふたたび世界はゆがむ。物語は世界を救う。ただ、こうした「健全」な文学観にはすでに「それ」が忍び込んでいるはずである。『1Q84』の場合、性交や超能力に超越的な価値を付与する精神が「それ」だと思う。