新潮7月号、東浩紀「ファントム、クォンタム」、連載第七回

 明日に「ファントム、クォンタム」の最終回が出る。その前に第七回についても書いておこう。もっとも、この回は筋書き上は最終回へのつなぎの章でしかない。粗雑ながら、今日しか考えられないことを書き留めておく。第一回で扱った村上春樹「プールサイド」の問題である。第五回で大島理樹は「三五歳問題」と名づけている。
 「プールサイド」の主人公や往人Aそして東浩紀にとって三十五歳問題は、同じ年齢層の者が等しくかかえる現実である。私はとっくに三十五を過ぎている。ところが、私の場合、三十五歳以降の人生の方が豊かで、それ以前は何も成し遂げなかったに等しい。そして、それ以外の若い私の可能性があったとはあまり思えないのである。往人Aにおける三十五歳に私がまだ達してないだけだ、と言われそうだが、本当はなかなか噛み合わない立場の違いではなかろうか。
 登場人物の発言で私は理樹に異議を唱えたくなることが多い。三十五歳問題を理樹は「並行世界の問題、計算資源の問題だ」と言う。彼の理屈で考えれば、私の人生においても若い頃の方がたくさんの可能性があった、と言える。それだけに私は、豊富な可能性と実際の人生の充実は別物なのだ、と言いたくなるわけだ。終わりという観点から人生を眺めた時に現れるのが三十五歳問題の要点だろう。並行世界を考えずに説明すると、凡庸な、中年の憂鬱と変わらない。「プールサイド」の涙は本人の意識できない並行世界の干渉かも、と考えるとちょっと面白いのである。
 理樹には「プールサイド」から『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に話題を移すことの方が重要だった。「この小説の世界観は、量子脳計算理論の存在論に驚くほど似ている」と理樹は言う。彼の要約によれば、あの長編は「三五歳を過ぎた中年男が、自分の量子脳のなかに作り上げた並行世界のシミュレーションのなかに引きずり込まれ、結果として死んでしまう物語だ」。
 理樹の発言で私が珍しく気になるところである。これを「ファントム、クォンタム」に適応したらどうなるだろう。「ぼくたちは、もしかしたら、そもそものはじめから並行世界など生きていないのではないか」。すると、最終回発表前夜の余興として、ほんの思いつきを言ってみると、第二回の「(電話を)キッテ!」は私が予想したよりもややこしいものだったようである。Aに汐子が存在する点や、互いに幼いAの風子とBの風子が似ている点が、そんなことを思わせる。