斎藤環『関係の化学としての文学』

 ラカンを読もうとして私はいつも挫折した。解説書は何冊か読めたけど、ラカンは読めなくてもいいや、と思わせた。斎藤環『生き延びるためのラカン』で初めてラカンを面白いと思えたものである。
 小説を筋立てや設定、登場人物、文体で批評する例はよくあるが、斎藤環は「関係」を考える。そこが新鮮だ。ただし、「関係」とは何か。多くの批評がたとえば恋愛「関係」を扱っているように見える。しかし、斎藤の言う「関係」は「所有」ではない。「小説においては、「所有」以外の形式において恋愛関係が描かれることはきわめて稀である」と彼は言う。多くの小説が男性原理によって書かれてしまっている。

 男性にとって、性愛とは所有することだ。だからセックスは性関係の全てであり、究極の所有の儀式にほかならない。モノにするだの喰うだのといった俗語が表す状態がすべて、ということになる。言い換えるなら、男性は女性との関係において、セックスよりも深く、所有よりも先へと進んでいくことが難しい。

 対して、「女性にとっては、性愛は関係を意味している」。こうした分類の割り切りが、しばしば私をがっかりさせる。斎藤にはそういう浅さがある。けど、関係の所有を欲望しその解決に向かってセックスに突進する以外の小説がある、と言われるとやっぱり気になる。それは、関係そのものを欲望する小説であり、関係の謎を解決するのではなく、深めるばかりの、たとえば関係を想像するような小説だ。この観点から、桐野夏生谷崎潤一郎中上健次を中心に扱った一冊である。
 追記。桐野夏生と言われても私は「グリム童話の人でしょ」ぐらいの認識しかありませんでした。でもそれって桐生操なんですね。あわてて『残虐記』を読みました。「驚くべき小説」と斎藤の書いてたやつです。彼は文庫版の解説も担当していました。「ゆるさない」という一言の彼の解釈は、どこかひっかかるのだけど、基本はそれでいいだろうと思います。
 斎藤だけでなく、最近の評論家に関して思うことがある。古い私小説のリアリズムを実態と異なる類型で考えているんぢゃないか。「身の回りにあったことをそのまま書く小説」という分類である。けれど、私小説であっても事実をそのまま書くことは不可能だし、書くことによって書かれたモデルも本人も事実も変質をこうむり、作者だってそれを自覚しながら戦略的にありのままを装う。私小説って、ストーリーの面白さよりも、書くことをめぐる諸関係が錯綜する場を楽しむもので、我々は斎藤環が現れる前からそんな小説をたくさん読んできたようにも思うのだ。