新潮4月号、東浩紀「ファントム、クォンタム」、連載第六回

 村上春樹1Q84』と東浩紀ファントム、クォンタム」の世界観の違いは、可能世界と並行世界の違いである。簡単ながら前回の更新でふれた。たとえば、あるベテラン軍人に若いころは神父になる可能性があった場合、その事態を可能世界として考える限り、それは言葉の上での空想だが、並行世界としては、この神父が実在することはほぼ確実だろう。彼の実存とは、後者の世界観に立てば、軍人であったり神父であったりする全並行世界における彼の存在のことであるはずだ。こんな実存主義哲学を私は知らない。東浩紀が実存という語を使うたびに私は違和感を覚えてきたが、その理由はこの世界観かもしれない。浩紀の言葉を彼のブログから引用しておこう。『CLANNAD AFTER STORY』に関する3/17の記述だ。「ファントム、クォンタム」においては往人Bの思想でもあると考えてもいい。

 ぼくの考えでは、もともとマルチエンディング・ノベルゲームでは(そして本当は、ぼくたちが生きているこのリアルな世界においても)、「トゥルー」エンドなどというものはありえない。渚と汐を失った人生も、渚と汐と幸福な家庭を築き上げた人生も、ともに朋也にとっては真実でしかありえない。不幸な人生にも幸福な人生が可能性の芽としては畳み込まれており、またその逆もある、というのがマルチエンディング・ノベルゲームが提示する世界観なのであり、それは原理的に、「主人公が努力すれば幸せをつかむことができる」という通常の物語とは異質なものです。

 あまりになじみの無い世界観を提示され、連載が進むにつれてたくさんの疑問が生じ、著者に質問したいことがいくつも出てくる。私をこの小説に熱中させる核心だ。特に素朴な一問を記しておく。Aにおいて不幸な母を救うために理樹はこの母の未来を変える。しかし、母はBにおいて幸福なのである。また、Aよりもっと不幸な母が他の並行世界にきっと居るだろう。ならば、Aの母を救うことに意味はあるのだろうか?母はとっくに幸福だし、相変わらず不幸なのだから。
 連載は第六回から大きく舞台を変え第二部に入った。往人Aと理樹、そして2008年の風子と2035年の風子の四人は、理樹の母つまり往人Aの妻友梨花によって2036年のAに転送される。おそらく、前に私が予想した「ある女性」は友梨花だろう。もう少し真剣に考えればわかったはずで、ちょっと残念。
 私はもうひとつの予想をしていて、それは、往人Aと往人Bの対面だが、これは外れたようである。すでに連載は第七回まで進み、私は読み終わっている。それによると、往人Bはすでに死んでいるのだ。実は友梨花はBにおける友梨花の転送を故意に行わず、いわば殺してしまったので、友梨花Aと友梨花Bの対面も無い。風子だけが「自分との対面」を果たすわけだが、大人と幼児なので対等の対話が成立しにくい。このような筋書きにいまのところ私は不満である。浩紀は別のことを書きたいのだろう。それは何か、最終回の発表まであと数日である。