水無月の一番、村上春樹『1Q84』Book2(その2)

 前回はパシヴァとレシヴァ、ドウタとマザの関係から作品全体を整理した。この小説の考えやすい部分だ。難しいのは1Q841984の関係である。リーダーはそれを並行世界(パラレルワールド)とはとらえていない。1984年の世界は「もうどこにも存在しない」と彼は言う、「今となっては時間といえばこの1Q84年のほかには存在しない」。Book1 第1章のタクシー運転手だって、「現実というのは常にひとつきりです」と言っていた。いまにして思うと、これは青豆だけでなく読者への親切でもあった。
 1984年はオウム真理教の前身オウムの会ができた年でもある。彼らが起こした地下鉄サリン事件被害者へのインタヴュー『アンダーグラウンド』を村上春樹は書いた。この本での明石志津子と春樹の握手は、天吾が青豆に手を握られた感触を想起させる。また、09/03/08で触れたエルサレム賞講演での「システムへの抵抗」は、爆弾魔ユナ・ボマーの思想でもあったこともわかる。オウムへのこだわりが春樹に1984年を選ばせて、あの事件を招いたシステムに対抗できたはずの物語が生まれた、と考えようか。でも、オウムを知らない読者には説得力の無い説明だ。
 1Q84が設定された意味は、やはりそれが物語の世界だということだろう。天吾は物語の世界を現実として生きている。永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』(1995)の定義が明快で応用できる。現実世界とは「それぞれの可能世界の住人が自分の世界を呼ぶ名」だ。現実と可能世界の違いは、物語か否かではない。そこに自分が居るか否かだ。その意味で「現実というのは常にひとつきりです」というのは正しい。この考えでは並行世界は非現実になるだろう。リーダーがパラレルワールドを笑って片づける場面に象徴的だ。東浩紀ファントム、クォンタム」と似て非なる点である。
 永井の定義をわれわれの1984年から2009年の現実にも適用すれば、それが物語であっても構わない。むしろ、生きるに値する物語として現実を生きよう、そんな物語を創造すべきだ、というのが『1Q84』のメッセージだろう。実際、天吾が青豆探しの物語をみづから生きてゆくことを選択して小説は終わる。よくまとまった終わり方だが、続編を望んだり、続編があって当然だと思う読者があまりに多い。たぶん彼らは天吾と青豆の愛の物語を中心に読んでるのだ。二人が奇跡の再会を果たして泣いて抱き合う、どこにでもころがってる結末があるはずだ、と願うだけでなくきっと信じている。
 私は物語批判の時代の人間である。物語の堕落ぶりや危険性の方が眼に付いてしまう。離れ離れの二人が居たら最後に出会わなければならぬという固定観念を、物語はより強固にこそすれ、それを崩す物語が新しく生まれることはありえない。物語を生きるとは固定観念を守り抜く抑圧だ。だから私は物語批判としての小説を蓮實重彦に倣って擁護したいと思う。ところが、村上春樹の物語観をうかがうに、彼だって物語の危険性は充分承知なのだ。そのうえでなお物語に賭けている。私は自分の立場がどうあれ、こういうドンキホーテを見るとつい応援したくなるたちだ。