書き直された『ヘヴン』(その1)

 今月に出た「文学界」「文芸」「すばる」「新潮」の全部に『ヘヴン』の書評が載っていた。しかし、そのどれも、作品を理解するという点では読むに値しない。ネットでもいろいろ読んだ。私が気になったのは、作者自身のブログ「川上未映子の純粋悲性批判」090901 の記述である。

 今回、書籍化にあたって加筆修正をしました。目に見えてわかるようなそんなに大きな変更はないけれど、わかる人には「!」みたいな、一行で小説が変わってしまうような重要な作業だったと思います。あとは細かな調整などなど。しかし小説は手元にあるうちはほんとにまったくきりがないね。あれもこれもになっちゃうね。

 「群像」八月号の初出と九月発行の初版本とをさっそく比較してみた。直しの多くは漢字と平仮名の変換である。「すわる」を「座る」、「いく」を「行く」に直す例が特に多かった。付属語や補助動詞などの細かい訂正も少なくない。文や句や文節を直す例は、書き加えが主で、削除は少ない。さて、せっかくだから、一文以上を追加したり削除したりした例をすべて紹介しよう。色で分けた。削除された部分追加された部分私のコメント、である。なお、細かい訂正や改行は省いた。
1章43ページ。教室にひとりきりの主人公の前に百瀬が現れ、そして女子が現れる、不思議な場面。 まっすぐにのびた長い髪が、百瀬の腕にかかっていた。女子生徒はしゃがみこんで百瀬をじっと見つめていた。そしてしばらくして百瀬の作業が終わるとふたりはなにも話さないまま立ちあがり、女子生徒は百瀬の腕に手をかけて歩きだし、ふたりはそのままでていった。
3章75ページ。二ノ宮たちをこわいと思うことをめぐる思索。 でもなぜ僕はこわいんだろう。傷つくことが、こわいということなんだろうか。もしそれが僕にとってこわいことなんだとしたら、恐怖なんだとしたら、なぜ僕はそれを僕のちからで変えることができないんだろう。そもそも傷つくとはなんだろう。苛められて、暴力をふるわれて、なぜ僕はそのままそれに従うことしかできないのだろう。従うとはなんだろう。僕はなぜこわいのだろう。なぜこわいのだろう。こわいとはいったいなんだろう。
3章76ページ。マスターベーション、その一。 それから僕はズボンのファスナーをおろしてペニスを取りだしてにぎり、手を動かして、まるめたティッシュペーパーをペニスのさきにあてて射精をした。そうしてみると気持ちのざわめきや不安がほんの少しだけ小さくなったような気がするのだった。精液をたっぷりとふくんだティッシュペーパーを新しいティッシュペーパーで何重にもくるみ、あとでトイレに持っていって流すために枕もとに置いておいた。僕がマスターベーションをするのは、こんなふうに言いようのない、けれどももうとっくに見慣れてしまった不安におそわれたときに限られていた。これほど多く書き直すのは珍しい。8章にもマスターベーションがあり、そこはさらに複雑に書き直されている。
5章107ページ。葬式に一人でも行こうとする母と主人公の会話。母さんも無理にはお願いしないわよ、と言ったけれど、僕が一緒に行くと言うと少し安心したような顔をして、ありがとうちょっと遠いわよ、と言った。書き換えはたいてい成功してるが、ここは元の方が好きだ。3ページあとで彼女はまた「ありがとう」を言う。その反復がくどいと判断されたのだろう。
5章133ページ。人頭サッカーのあとで。「痛い?」と迷ったような声でコジマがきいた。僕は黙っていた。「歯茎とか、顎まで痛い」「なんとかして病院にはいったほうがいいと思うの」とコジマは言った。通院を最初に勧めたのがコジマであるのは皮肉だ。
5章143ページ。人頭サッカーの怪我を教師に問われた場面。「ずいぶん腫れてるけど病院は行ったのか?」「まだ行ってません。帰ってからいこうと思ってます
 いまのところ、「一行で小説が変わってしまうような」改稿は無いと思う。6章以降になると、一回の書き換えの分量が多くなる。それは次回に。