東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(その1)

 前にも書いたことの確認から始める。東浩紀は『1Q84』について、作者の新境地が見られない点を厳しく批判している(「週刊朝日」六月二六日号)。村上春樹は「還暦を迎えてなお『自分探し』や『父との和解』にこだわる作風」を変えずにいる、という一節がそれだ。反感が湧いた。当時浩紀が連載していた「ファントム、クォンタム」こそ、自分探しや家族の和解の物語であるかのような進行を示していたからである。連載最終回も私の反感を減ずる内容では無かった。これが大改稿されて出版される、と知った時も、『クォンタム・ファミリーズ』という改題を一目見て、何がどう書き直されようと、家族の和解に至る小説であることを確信した。父との和解を描く老作家が批判されて、家族の和解を描く中年は許される。それはなぜ?浩紀にとっては些細な不誠実にすぎぬのかもしれない。ひとまづ一回書いて忘れておく。
 私は「ファントム、クォンタム」に熱中した。私には個人的なこだわりとして、「根拠の無い噂話で語られた私、他人の夢に現れた私、そういうものだって私であることに変わり無いのではないか」という感覚が何十年も前からあって、それを刺激する作品だったのである。並行世界の私は私なのか。感覚にすぎないので、他人のみならず自分自身から反論されても言い返せない。連載八回すべてにコメントした。そんなブログが他に見つからなかったのが不思議だ。「世界の複数性、私の複数性」は現代文学の中心課題だと思うのだけれど。とはいえ、私はあまり「ファントム、クォンタム」を上手に読めなかったと思う。初歩的なところでいろいろつまづいたようだ。捲土重来を期し、単行本になるまでの間にディックとかイーガンとかペンローズとか古澤明『量子テレポーテーション』なんて読んで備えていた。
 そんなわけで、『クォンタム・ファミリーズ』が届いたときは、武蔵を待ちかねた小次郎のように興奮したのであった。良い表紙だ。目次が無い。構成の見当がつかぬままページを開くと、「物語外1」が始まり、「資料A」「B」「C」というウェブからの引用がある。もちろん内容は創作だ。いづれも「ファントム、クォンタム」の書き直しで、たとえば冒頭の「米A州Ph市警」は連載では「米アリゾナ州フェニックス市警」だった。ざっと見て、大きな違いは無さそうだが構成が異なる。「ファントム、クォンタム」ではこれらの「資料」は物語の進行に応じてその都度はさみこまれていた。改稿によって、失われた味もあるが、いきなり読者を近未来の世界に引きつける効果は増したろう。
 「ファントム、クォンタム」には大きな欠点がいくつかある。ひとつは葦船往人の行方不明の経緯がわからず、小説として稚拙であることだ。行方不明の設定は「物語外1」でも採用された。それは『クォンタム・ファミリーズ』では経緯が詳しく語られることを期待させる。また、「ファントム、クォンタム」の大島友梨花はルソーの影響を受けた教育者である。第二部でわかる。浩紀の「一般意志2.0」を想起させて興味深い。改稿によってそれが冒頭から示されるかな、と思ったが、そうはならなかった。改稿第二部でルソーは出るだろうか。出る、と思うが。