東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(その2)

 「新潮」連載時とは対照的に話題になってるようだ。作者のブログによれば、初刷が5000部で、発売日には増刷5000部が決まったとのこと。文芸誌とは無縁の読者層に支持されているのだろう。
 第一部の最初「1父1」を読む。往人の結婚相手の父は「著名な字幕翻訳家」だというのは「ファントム、クォンタム」と変わらない。往人の設定が作者に近いことを想起させる。「ファントム、クォンタム」には、舅について何も知らされないまま会わされた往人が恥をかかされたと思う記述が、たしか後で出てきたはずだが新刊ではどうだろう。これも作者の体験と重なるエピソードだ。
 「ファントム、クォンタム」についてはすでにいろいろ書いたから、これと重ならない部分を見てゆこう。ディックについて連載では、「自分が狂ったと言えるのであれば狂っていない。(略)しかし、その正気はもはや狂気の防波堤になっていなかった。ディックの主人公のように」とある。この最後の一文にあたる箇所が『クォンタム・ファミリーズ』では「世界には『意識的な狂気』としか呼びようのないものがある。ぼくはそのことを、P・K・ディックのどこかの小説で読んで知っていた」に変わった。
 東浩紀は、ディックの「脱出のモチーフと不気味なもののモチーフ」を論じて、それらが「近代の狂気とポストモダンの狂気、物語的な超越の想像力とデータベース的な超越の想像力」につながっている、と七年前に述べている(「神はどこにいるのか:断章」)。同じエッセイからもうひとつ、『ユービック』の結末にふれた部分を引用しておく。

 ジョーはランシターの世界のなかに、ランシターはジョーの世界のなかにおり、そのどちらが最終審級なのかは読者にも決定できない。内部と外部が短絡してしまう、このクラインの壺のような循環構造を作り上げた点で、『ユービック』は、ディック作品のなかでも、脱出(とその不可能性)のモチーフをもっとも見事に処理した小説だと言える。

 私はエッシャーの、互いに描きあう二本の手を連想する。この循環構造は「ファントム、クォンタム」にもあり、必ず『クォンタム・ファミリーズ』にまで受け継がれねばならぬ。作品を特徴づける最重要の世界観だからだ。ちなみに、ディックについて浩紀が最も詳しく語っているのは「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」だろう。他には「計算の時代の幻視者」がある。