東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(その3)

 「2娘1」を読む。父と娘が交互に語り合う章立てのようだ。ますます村上春樹っぽいが、「ファントム、クォンタム」より構成感がくっきりして良い。「娘」の章で特筆すべき改稿点は、「あなた」への手記になったことだ。「わたしはいま、故郷の世界から遠く離れ、ネットワークからも切り離され、文字どおり紙のうえに、慣れないペンを使ってひとりきりでこの文章を記しています」。これが後半のどんな設定と結びついているか、「ファントム、クォンタム」の読者としては、09/07/28 で書いたことが当たってたように思える。また、そこで述べた疑問箇所が『クォンタム・ファミリーズ』では削除され、欠陥がひとつ消えた。ではこの手記がいつ書き始められるのか、それが気になる。先を読み進めればわかるだろう。
 問題は「あなた」が特定の宛名を持つことだ。09/08/24 にざっとまとめた、浅田彰東浩紀の対立点として有名な投瓶通信の議論がある。そこで述べたように、「ファントム、クォンタム」での手記は投瓶通信である。つまり、この方式はもともと『存在論的、郵便的』で提示されていながら著者は否定して浅田彰の代名詞に使い、その一方で「ファントム、クォンタム」の手記には採用する、という複雑な事情がある。私にはそれが興味深かった。しかし、この改稿によってわかる。浩紀は投瓶通信の否定を一貫させようとしている。だが、父の草稿という投瓶を並行世界の娘がたまたま拾ってしまったのがこの小説の始まりだ。これは改稿で直せるようなレベルではない。結論を言おう。浩紀が投瓶通信を否定しているのは確かだが、彼の世界観に投瓶通信制度が根を張っているのも間違いないのである。
 大塚英志も浩紀に対して、「君の批評の出発点は、瓶に詰めて流す、郵便的誤配を希望してはじめたものでしょう?」と問うている(『リアルのゆくえ』2008年)。浩紀の答えはこうだ。

 ぼくがデリダ論(『存在論的、郵便的』)で言ったのは「誤配」の話で、投瓶通信のモデルを好んでいたのは浅田さんのほうですね。投瓶通信のほうは、「届くべき人には必ず届く」という話なので、ぼくの誤配の話とは違います。

 以前の引用を繰り返せば、「届かないこともあるけれど、それは仕方がない」「見えない読者がたまたま拾って読んでくれればそれでいいんじゃないの?」というのが浅田の言う投瓶通信だ。「届くべき人には必ず届く」という話ではない。そうすると、誤配と投瓶の違いはやはりわからない。
 投瓶論争についてもう少し。浅田彰が「中央公論」最新号で蓮實重彦と対談している。同時多発テロがあろうと、リーマンショックがあろうと、この二人の言うことは変わらんなあ、と思った。それが偉さなのか限界なのかは措く。浩紀が投瓶を否定するのは彼の出発点と整合しない、という話があった。現在の浩紀の「より多くの人に郵便を届けるために営業努力せねばならぬ」という主張は、

 そうすると、しかし、インターネットなりツイッターなり、そういうアーキテクチャを作るほうが重要だ、ということになっていく。(略)ネットのような配達システムが支配的になったために、「この私の発見を届けることが大事だ」ということになった。しかし、僕は大事なのは発見であって、伝達への誘惑は捨てたほうがいいと思います。

 蓮實先生は「私もそう思います」と応じている。