東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(その6)

 最近は「私の複数性」を扱う小説がなぜ多いのか。来年にゆっくり考えるつもりが、とっくに東浩紀「情報社会の二層構造」(『文学環境論集』2007年)に書かれていた。ポストモダンとその社会構造が簡潔に説明されている。二層構造とは次のようなものだ。

 二一世紀の国民国家は、一九世紀にヘーゲルが描き出したような、全体性を体現する存在ではなくなる。インフラとしての国家は存在し続けるが、その機能は、かつてなく無意識化され不可視化されるようになる。そして、人々の社会生活は、脱国家的な多様なコミュニティに多重帰属しつつ行われるようになる。

 つまり、「価値中立的なインフラ/アーキテクチャの層と、価値指向的なコミュニティ/イデオロギーの層」に分かれるのだ。具体例として、「グローバルな市場とそのうえに乗っかる国民国家」や「インターネットとそのうえに乗っかる多様な消費者コミュニティ」などが挙げられている。「うえ」が価値指向的な層だ。「私の複数性」はそちらの現象である。

 ポストモダン社会の市民は、複数のアイデンティティを使い分け、自分と組織を簡単に切り離す「解離的」な傾向を強くもっている。解離性人格障害(多重人格)の症例が急増したのも、やはり一九七〇年代以降である。

 『クォンタム・ファミリーズ』の転送に解離性人格障害が使われることや、平野啓一郎『ドーン』の「分人主義」を想起させる。
 第一部を読み終わった。理樹が風子に「図」を説明する。ラカンだろうか(追記。フロイトっぽくもある)。このあたりは「ファントム、クォンタム」の方がちょっと詳しい。興味のあるかたは「新潮」二月号を。一番の問題は、理樹の語る「もうひとつの可能性」だ。こないだ私が連想したエッシャーの絵で言えば、互いに描き合う二本の手は、どちらもエッシャーによって描かれている、という事態にあたる。連載時からの疑問は、なぜ理樹がこれに気づけたのか、だ。しかし、改稿はほとんど無く、「この事件にはなにかおかしいところがある」としか理樹は言ってくれない。ヒントは彼の語る村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にありそうだ。ここもほぼ改稿されてない。読み終わってから考えよう。いま私が思いつく「なにかおかしいところ」は、往人も気づいている「とても都合がよい」ことだ。