補足二冊。特に斎藤環『文脈病』(1998)

 前に言及しただけで気になっていた二冊について。10/01/27の『女流文学者会・記録』は、ざっと読んだだけでたいしたことなかった。少なくとも、「特筆すべき記録本」は言いすぎ。女流作家の立場についての証言なら、たとえば、瀬戸内晴美極楽とんぼの記」(1967年9月「新潮」)のようなのを集めた方が記録として役に立つ、と思った。もう一冊は、10/02/06斎藤環『文脈病』、こちらは序章「「顔」における主体の二重化」が勉強になった。
 斎藤は「顔」を「固有名」だと言う。「顔」はレヴィナスドゥルーズ=ガタリの用語、「固有名」はクリプキの議論を背景にしている。だから、「「顔」の本質はその固有性にしかない」が斎藤の前提になるのはわかる。柄谷行人の影響もあろう。
 顔を言語として考えると、いろんなことが見えてくる。私は子供のころパスカル『パンセ』を読んで、不思議と気になった章がある、「二つの似た顔は別々では人を笑わせないが、一緒に並ぶと、その相似によって笑わせる」。しばらくして、サルトル『想像力の問題』を読んで、物真似芸について、似たような問題が論じられていたが、あんまりピンとこなかった。ところが、斎藤は明快に言ってくれた、「よく似た顔が笑いをさそうのは、われわれが駄洒落を笑うことに近い」。斎藤によれば、顔が言語であることは、人が顔を欲望することと関連する。これは彼のラカン論などから推測できよう。
 さて、柄谷のような固有名論と異なってくるのがここからだ。物語が話題になるのもここからだ。斎藤は、「虚構世界の固有名は、かならずその「確定記述」の総体を前提として成立している」と述べる。ラスコーリニコフが固有性を持つには、当然ながら彼を名づけるだけでは不十分で、『罪と罰』全巻が必要だ。「確定記述」とは簡単に言えば、定義や説明である。柄谷は、固有名を確定記述で置き換えることはできない、と主張した。対して斎藤は、固有性の獲得には「文脈」「コンテクスト」が必要なのだ、と考えた。彼の言うことは、生身の人間にも当てはまる。現実という文脈を欠いてはわれわれは固有性を失ってしまうだろう。
 いまこうして本を読み返しながら斎藤の話をまとめていると、説明不足や論理の飛躍が目立つ。最大の飛躍は、「虚構のキャラクターは、その固有性(リアリティ)を作家本人、そうでなければ「物語」の文脈から供給されなければならない」という一文の「作家本人」という一語の使用にあろう。「作家は、みずからの固有性とは全く独立に、あらたな固有の人物を創造することはできない」。これは斎藤の「確信」でしかないことを、彼も認めている。しかし、作家の作風、私小説の魅力、など、この観点を応用して説明したくなる問題をいろいろ思いつくのも確かだ。

 「顔の固有性」にはコンテクストが先行する。しかしまた「固有性のコンテクスト」は顔によって可能になる。いずれが先かということではなく、こうした循環的な関係こそが、「顔」とコンテクストの関係の本質をあらわしている。この循環性と「テクスト-コンテクスト」という循環は、あきらかに平行関係にある。すなわちテクストの意味はコンテクストにおいて理解されるが、コンテクストはテクストの構造抜きには成立しないのである。

 斎藤の説明が足りない、と言うより、問題が難しいのである。さしあたりその問題の難しさは、この循環性にあるとだけ確認して終えよう。