「思想地図」vol.4、宇野常寛「ポスト・ゼロ年代の想像力」冒頭

 物語批判は古い、と宇野常寛は「思想地図」第四号の「ポスト・ゼロ年代の想像力」で述べている。相も変わらず物語批判を奉じている例として「早稲田文学」を挙げた。彼はこれを「文壇のキューバ」と呼んでるそうだ。しかし、たとえば、ムーア『シッコ』に描かれたキューバはそれなりに魅力があった。宇野ほか「思想地図」周辺の連中を「論壇のアメリカ」と呼んだら、それは蔑称なんだろうか、尊称なんだろうか。
 何度かふれた「新潮」一月号の東平野対談で浩紀が言っている、「批評というのは、すごくアクロバティックなメタゲームなんですね。要はだれが一番頭がよく見えるか、だれがいちばんメタに立てるかってことだけをやっている世界で、スポーツに近い」。これは「思想地図」派の批評観を簡潔に表明した名言だと思う。
 物語批判が古いのはなぜか。ポストモダンの「大きな物語の終焉と小さな物語の散在」をまづ確認して宇野は言う、「物語批判もまた「大きな物語」が失効した現在においては「終了した作業」にすぎず、原理的にはそこに強度は発生しない」。せいぜい旧態然の「キューバ」内部でしか説得力を持たない。つまり、物語批判は物語のメタレベルに立つようでいて、ポストモダンのいまにおいては、物語批判も小さな物語のひとつでしかない。宇野は物語批判に対して「メタに立つスポーツ」をやってみせたわけだ。
 そこが気に食わない。私にとっての物語批判というのは柄谷行人蓮實重彦の物語批判である。それはメタレベルに立つことを自分に許さない倫理的な行為ではなかったか。たしかに勘違いしやすいところなのだが、そこは大事だろう。柄谷や蓮實への敬意をしばしば口にする東浩紀であるが、この肝心な面は受け継いでいない。すると、宇野がスポーツしてみせた相手は何の物語批判なのか。ああ、「早稲田文学」か。
 いまの批評は状況論や社会構造の分析ばかりだ、と言われる。だからこれからは「作家論、作品論に回帰していくんじゃないですか。構造の分析は限界にきている」(佐々木敦asahi.com, 09/09/17)というのも筋違いな話だ。宇野論文にしたって、作家論作品論も盛り込まれている。われわれが批判すべきはメタスポーツの批評観なのだ。状況論が悪いのではない。「思想地図」派が他者よりメタに立つことによって、他者をネタにしてしまうという倫理の欠如が、彼らの議論を空疎にし、嫌悪さえ招いているのである。