大江健三郎『水死』第一部、第二部

 まだ読み終わらないの?と嫁に言われてしまった。大江健三郎『水死』である。十二月に出てすぐ買ったんだけどな。やっと第二部を終わったところである。大江の小説は私にはとても読みづらいのだ。たとえば、『万延元年のフットボール』で言うと、弟が感激をこめて物語る事実に対して、兄が「違うよそれは」云々と訂正する、こんな解釈ゲームが何度も現れると、つい私は、「哲学者たちは世界をいろいろに解釈しただけである」という古標語に加担したくなる。『水死』にも解釈ゲームはある。ある漢字を「しんしん」と読むか「びょうびょう」と読むかで、長江先生は前者だと思い、その息子である主人公は後者に訂正する、しかし、父を知る者は「あれはやはり長江先生の漢字の受けとめが正しかったということになるのやないか」と主人公に告げる。事実信仰を揺るがす絶えざる読み替えによる物語批判ということなんだろうが、言葉の解釈を変えるだけで事実が変わるかのような、かつて丸山圭三郎ソシュール論なんかに感じたのと同じ安易さがよみがえるのだ。
 「群像」一月号に「「後期の仕事(レイトワーク)」の現場から」があって、これはちょうど『水死』の第二部まで終えてこれから最後の第三部を仕上げようとしている作家の講演である。『水死』の構想が語られる。ざっと要約してしまうと、「書けない小説家」という伝統的な私小説の現代版だ。この講演で大江は自分の小説を反私小説に分類しているが、それとこれとは矛盾しないだろう。主人公「私」は「水死小説」を書こうとして書けない。

 「水死小説」は放棄せざるをえなくなる。しかしその段階で、様ざまな証言に表れている、「私」の父親の超国家主義が、つまり「天皇陛下万歳」と叫んで勇んで死んでゆく者の思想がどういうものであったかが、あきらかになってゆく。「私」は「水死小説」としてずっと構想していたかたちとは別の仕方で、物語をたどり直す。そしてそのことで、敗戦時、十歳であった自分の、当時の「時代の精神」にあらためて直面してゆく。「天皇陛下万歳」のその時の「時代の精神」が「私」自身のものとして、動かしがたく自覚されて来る。

 おお、それなら第三部も読みたい、とやっと元気が湧いてきた。「天皇」と「時代の精神」が夏目漱石『こころ』を想起させるのは言うまでも無い。第二部で『こころ』は朗読劇として上演される。その演出が前衛的だ。あの不可解な「明治の精神」をめぐって、役者と観客が議論を戦わせるのである。
 最後に、この議論の演出について一言。会場は二派に分かれた。発言者には反対派から「死んだ犬」が投げつけられる。時にはたくさん投げつけられる。問題発言には容赦無く降り注ぐ。誰が投げたか、それはわからない。ブログや掲示板が炎上する様そのものではないか。大江健三郎の想像力もインターネットの世界をなぞるようになってる、と思った。そして、「死んだ犬」の演出が作中で賞賛されているのはこわかった。