投瓶論争まだまだ

 投瓶論争にはもう触れないつもりだった。充分に理解できたからである。というのは、どうも勘違いだったらしい。東浩紀が21日のtwitter で投瓶通信について何度か言及している。ガキっぽさは相変わらずだけど、ふたつほど、思いもよらない発言があった。
 ひとつは、「手紙はね、届かないかもしれないけど、それでも届くって祈りを込めるから手紙なのです。浅田さんたちには祈りがない」。もうひとつはそれに続く発言で、「ちなみにいまのツイートは思いつきではなくて、「存在論的、郵便的」でも記したように、デリダにおいて「メシア的なもの」の概念は「誤配」と非常に深く結びついています。コミュニケーションのミスから生まれる幽霊、そこへの投企こそがデリダ的祈りなのです」。祈りなんて、私は初めてお目にかかった。「届かないかもしれないけど、それはそれで仕方ない」という浅田彰式投瓶通信、「必ず届くという確信」を持つ浩紀式投瓶通信は何度も検討した。しかし、後者に「届かないかもしれないけど、それでも届くって祈り」が込められているとは。
 本当に『存在論的、郵便的』にそんなことが書いてあったか。どれどれ。ざっと読み返してみた。で、「メシア的なもの」とは『マルクスの亡霊たち』の用語で、「メシアニズム」の対義語だ。簡単に言えば、メシアニズムは予測可能な未来に関わり、メシア的なものは予測不可能な未来に関わる。たとえば、本文を書きあげてから序文は書かれる。この場合、序文はすでに書かれた内容を予告するだけの、つまり予測可能な未来に関わるメシアニズムのテクストだ。対して、誤配はメシア的なものと「非常に深く結びついています」。しかし、「祈り」は書かれてないように思った。もっと詳しく調べるべきだが、「祈り」は最近の浩紀による解釈ではなかろうか。とりあえず今回はここまで。仕方ない、『マルクスの亡霊たち』を注文したさ。