柄谷行人『世界史の構造』(5)「第二部第四章」

 世界帝国は共同体を越えた世界宗教や普遍宗教を必要とする。それ無しでは帝国内の多様な国民を束ねることができない。宗教とは何か。それは呪術とは異なる。呪術は交換様式Aにもとづく。宗教は交換様式Bである。人間は神に服従して祈りを捧げ、神は人間を支配して豊作や戦勝を与える。国家は宗教と結びつき、国王は祭司として権威を持つ。国が滅べば、その国の神を誰も顧みなくなる。普遍宗教には一般的な宗教とは異なる面がある。普遍宗教の神は、豊作や戦勝の祈願に応じなくても捨てられることが無い。
 世界宗教と普遍宗教の区別が重要だろう。キリスト教はその両面を有している。それは世界帝国の統治手段として世界帝国の内部で威光を輝かせた世界宗教である。しかし、もともとは交換様式BとCが肥大して成立する世界帝国を批判する交換様式Dとして生まれた普遍宗教であった。交換様式BとCによる交換様式Aの解体に抵抗したのだ。交換様式Bは独立を奪い、交換様式Cは平等を奪う。キリスト教に限らず、普遍宗教は、世界宗教との両面の矛盾を意識することにおいて普遍性を有する。
 柄谷行人は普遍宗教の成立をユダヤ教で説明した。この場合のユダヤ教とは、イスラエル預言者たちがもたらした新たな神「モーセの神」の観念である。それは国家制度に否定的だ。砂漠に帰り、かつての独立と平等を保っていた遊牧民の倫理を回復せよ、と主張する。ただし、モーセの神は互酬制にもとづく呪術的な神ではない。人間の捧げ物に対して神が共同体の繁栄を返すのではない。それはユダヤ国家が滅んでも信仰が消えなかったことからもわかる。むしろそのことによってユダヤ教は普遍宗教になった。ユダヤ民族の存続はこの普遍性によって可能になった。
 これを柄谷はフロイトモーセ一神教』の「抑圧されたものの回帰」で説明した。たとえば、母親を嫌って母親と異なる女になろうとした娘が、大人になればなるほど母親に似てしまう、というのが抑圧されたものの回帰である。ユダヤにおいて抑圧されていた古い倫理がモーセの神において回帰したわけか。
 感想。わかりにくい章だった。内容は一九八六年の講演「世界宗教について」と重なる(『言葉と悲劇』所収)。それが理解を助けてくれる反面、両者には微妙な違いがある。講演でのモーセの教えは「砂漠に帰れ」ではなく「砂漠に逗まれ(とどまれ)」だった。また、モーセの神は共同体の神(ヤーヴェの神)に対立するものだった。だから、モーセの神は国家ではなく共同体を否定する神である。「世界宗教について」にわかりにくさは無い。この古い講演を修整して現在の著書にはめ込む無理が、この章をわかりにくくしてるように思う。直感で言うと、きっと間違ってる部分がある。「抑圧されたものの回帰」については、モーセの神を無意識のレベルに抑圧する必要があったのだろうか。もともとユダヤ教にはモーセの神とヤーヴェの神への異なる志向があり、歴史の折々において、その片方が有力になった、と述べた方がすっきりするように思った。