「新潮」9月号、絲山秋子「作家の超然」(2)

 主人公倉渕は首に腫瘍のできた作家で、兄夫婦を伴い、手術の説明を受ける。そこを引用する。私小説だろう。事実の報告を主とした体験記でないのは確かだ。文学的な主題がはっきりしている。この作品にもマニュアル通りの説明をする医師が現れる。前回に触れた二作と異なり、好感度は高い。
 作者は主人公を「おまえ」と呼ぶのが特徴だ。高村薫『太陽を曳く馬』にもそんな箇所があった。二人称の小説は、語り手が読者に呼び掛けているような効果を生む、と解説されたことがある。そうかな。「作家の超然」と『太陽を曳く馬』を読んだ経験では、丸裸の主人公を裁くような、作家が突き放した感じを生む。

「通常、頸部の大動脈と大静脈は寄り添っています」
 手術の説明の日、医師が最初に発したのはこんな言葉だった。
「そう、ちょうど倉渕さんのお兄さん夫婦のようにね」
 おまえは振り向かなかったが、兄がきょろきょろとその辺りを見回しているのが気配でわかった。
「ところで今回の腫瘍は、喩えていえば、そのご夫婦の真ん中に時子さんが居座って仲を裂こうとしているんですね」
 おまえは突然、胸を熱くする。
 これは、物語だ。
 主治医は語ることができる人だったのだ。(略)
「傷跡のことを申し上げますと」
「傷跡なんかいいんです。気にしません」
「いえ、ご説明することになってます。ちょっとお首を失礼、ここですね。最初は気になるかもしれないけれど、一年、二年たてば、ここに首の皺がありますのでその皺に隠れます。そういうふうに切りますので。縦に切ったら傷跡自体は短いんですが、その方が目立ちますし、皮膚の流れというものがあるんですね」
 医師は紙にさらさらと図を描いてみせた。
 生地の裁ち方のようだ。魚の捌き方のようだ。小説で言えば、文体ってわけだ。

 手術は地方都市で受ける。上記の兄のほかに「二番目の兄」もいる。その他いろんなことを主人公は気にしながら入院の日々を過ごす。新聞も気になる。でも一番の主題は物語だろう。ならば、いちいち気に病むべきではない、と啓示を受けたように気づき、「超然とするべきではなかったのか」という一句が降ってくる。「物語を書きたくて、そのために生きているのだ」。とはいえ、一心不乱に創作に励んで周囲を忘れてゆく、という吉村萬壱ふうの結末にはならない。
 むしろ、最後の一章は「文学の終焉」であり、語り手は「もはや物を書く理由などないのだ」と告げる。それも含めて「おまえは超然とするほかないではないか」というのが結論だ。文学だけでなくすべて滅ぶ。「すべてが滅んだ後、消えていった音のまわりに世にも美しい夕映えが現れるのを、おまえは待っている。ただ待っている」が最後である。
 残念なのは、最後の一章への転換が唐突だったことだ。文学の終焉やすべての滅びをもっと書きこんでほしい。作家も評論家も、終りを口にする割りには、終りのイメージが貧しいのである。