『マラルメ全集』第一巻(詩・イジチュール)

 三十年近くの昔、学生の頃は日本の近代詩が好きだったので、フランス語を知らないながらに象徴主義、特にマラルメへの敬意は持っていた。ブランショ『文学空間』の権威も余韻としてはまだ残っていて、だから、秋山澄夫訳の『骰子一擲』とか『イジチュール』をよく眺めていた。わかるはずもなく、いま久々に引き出してみても、ぽかーんとした感触がよみがえるだけである。敬意だけちょっと薄れている。
 ほぼ二十年かかってマラルメ全集が詩集の巻で完結したという。それで思い出した次第である。秋山訳と比べたらものすごく違っていた。「骰子一擲」(全集では「賽の一振り」)は当然として、「イジチュール」に驚いた。全集の解説を読むと、秋山やブランショの時代の「イジチュール」は、マラルメの女婿ボニオが彼の解釈によって編集した版なのだとか。もちろん個々の訳も違っている。ちょっと並べておく。

秋山訳 確実に今真夜である。そのうつろな響きによって一個の家具を喚起している時は、鏡のなかに消え失せもせず、壁掛けに匿れもしなかった。その黄金は真夜以外は夢のはかない宝物、豪華にして無用な遺物にすぎない風を装おうとしていたことをおもいだす、金銀細工の海と星との複雑性に無限の偶然なる数多なる結合が読取れることを別にしては。

全集 確かに、深夜は、そこに現前して残っている。時刻は、鏡を通って消え去りはしなかったし、壁掛けに埋もれもしなかった、その虚ろな響きが、家具調度の存在を喚起してはいたのだが。わたしが思い出すのは、その黄金の響きが、不在のなかで、夢想の虚無なる宝石の姿を、豪奢で無用な生き残りだが、その姿を取ろうとしていたことであり、金銀細工の海と星々の複雑な配置の上に、無限に組合せの可能な偶然が、読み取れていたことを除けば、である。

 両方を読んで頭の中でぼうっと混ぜこぜにしておくのが一番良さそうだ。全集でこの訳を担当したのは渡辺守章である。大量の解説と注も付けてくれた。「黄金」は時計の振り子の金の円盤部分、「金銀細工の海と星々」は時計の文字盤の装飾、とのこと。「深夜」については、「持続としての時間を断ち切って、それに対して屹立する時刻」と解釈してある。